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大浜村(近世)


 王府時代~明治41年の村名。八重山島大浜間切のうち。「両島絵図帳」では高803石余。順治8年(1651)の人口は平得村と合わせて242,康煕17年(1678)崎原村を合併(八重山島年来記/県史料前近代1)。雍正10年(1732)桃里村創建に際し,他村とともに寄百姓した(同前)。乾隆2年(1737)の調査報告では,人口1,061,村廻り16町で,「風気」はよく,田畑広く居住しやすいが,石垣村に近く臨時の公事があれば働かされるため,百姓は難儀するという(参遣状/喜舎場家文書)。同15年に大浜村と平得村は,人口が多く,土地が狭いことを理由に,両村から400人ずつ寄百姓して仲原村を創設したいと訴えたが,実現しなかった(参遣状/喜舎場家文書,八重山島年来記/県史料前近代1)。その頃は不作がちで,乾隆11~12年の定納米149石余も未進していた(長栄姓小宗家譜・上官姓小宗家譜)。康煕20年大城村を合併(八重山島年来記/県史料前近代1)。同36年の明和の大津波で村は跡形もなく流失して壊滅した。その被害は人口1,402のうち,1,287人が溺死し,家210軒・番所・役人詰所や崎原御嶽・宇野道御嶽・黒石御嶽の拝殿も流失,牛馬100頭が溺死し,畑377町余・田3町余の作物に被害が出,畑163町余・田9町余は耕作不能となった。そのため同年に波照間島から419人(男208人・女211人)を寄百姓し,もとの村敷から戌の方3町10間へ移動して村落が再建され,前記の3御嶽は村内の1か所にあったが古里山へ移された(大波之時各村之形行書/生活史料7)。また南大浜村・黒石村・フルスト村の3小村をも合併したという(新八重山歴史)。大浜村は集落の中央を通る中道を境に,西側を上の村,東側を下の村という。イタシィキバラ祭祀に唱えられる「獅子への願詞」には,大浜村の対語として黒石村の名が見え,両村の人々の願いを聞きとどけるよう祈願する(ニガイフチィ54/歌謡大成Ⅳ)。「あかんに田ゆんた」に「大浜むら ういぬむら」とあるのは大浜村の上の村のことであろう(ユンタ90/同前)。津波後の再建は困難で,波照間島から持参した食糧もなくなり,そのうえ乾隆42年(1777)の2度の台風でサツマイモも不作であった(嘉善姓小宗家譜)。嘉慶17年(1812)には年貢未進が170石余に及んだが,役人の勧農で再建されたという(上官姓小宗家譜)。こうしたなかで大浜村の人々は上納を済ませると,登野城村の蔵元から大浜村まで収納切祝歌として「与那覇節」を謡って帰り,胸をなでおろした(大浜村の郷土誌)。また人々は「大浜がじまる節」を謡って大浜村のガジュマルの枝ぶりや娘たちの眉目の美しさをたたえ,労働に励んだ(節歌補遺34/歌謡大成Ⅳ)。御嶽はヲノミチ御嶽・大城御嶽・コルセ御嶽・崎原御嶽がある(由来記)。村位は,「里積記」「人頭税賦課基本台帳」に布・石ともに上位と見える(那覇市史資料1‐2・八重山博物館蔵新本家文書)。明治12年沖縄県,同29年八重山郡に所属。戸数・人口は,明治13年104・628(男293・女335),同36年160・944(男465・女479)。明治36年の民有地総反別841町余うち田63町余・畑373町余・宅地14町余・山林18町余・原野146町余・牧場225町余(県史20)。同39年大浜尋常小学校(現大浜小学校)が大川尋常小学校から独立した。同41年八重山村の字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7464039