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神里(近代)


 明治41年~現在の字名。はじめ南風原村,昭和55年からは南風原町の字。明治44年当地を経て東【あがり】四間切へ通じる要路は,整備工事が竣工して島尻郡道玉城【たまぐすく】街道(のち県道久手堅那覇線,現県道48号)となり,那覇と島尻郡東部をより強く結びつけた。大正12年県営鉄道糸満線が開通したが,当初街道沿いを通る予定であった同路線は,村人の反対で当地の東側に変更された。沖縄戦では,昭和19年8月に学童が疎開のため熊本・宮崎両県へ向かった。同年12月には,糸満線で輸送中の第24師団の弾薬が爆発,民家3軒が全焼し,一部の貨車は山川駅近くまで暴走した。その後,神里之殿の東側の森に砲座が置かれた。同20年4月住民は知念村・玉城村をはじめ南部へ避難し,多くの戦死者・負傷者を出した。戦争直前の戸数179・人口820。沖縄戦での一般戦没者数は264(男116・女148)にものぼった。犠牲者には6歳以下の子供が45人も含まれ,一家全滅も10家族ほどあった。これらの犠牲者の159人以上は現在の糸満市域で戦死したもので,地内での戦死者は34人であった。神里出身の軍人・軍属の戦没者数は110(南風原町役場資料)。沖縄戦末期に住民は沖縄本島北部に収容され,同21年7月帰住が許された。人口は当時410,同30年767。戦後一時期は食糧自給のため,平坦地を残らず天水田としたほどだったが,その後のサトウキビブームで,天水田は次々とサトウキビ畑にかわり,昭和35年頃から水田は皆無の状態となった。サトウキビ栽培面積は,昭和41年8,000a,同55年1,694a,野菜は,昭和43年687a,同55年1,735a。世帯・人口は,昭和45年170・878,同52年190・894。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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