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嘉陽(近代)


 明治41年~現在の字名。はじめ久志村,昭和45年からは名護市の字。戦前の産業は農業が中心で,村落背後に広がる水田は久志村随一の肥沃な美田として知られた。薪取りや炭焼きの山仕事も盛んで,貴重な現金収入源であった。昭和9年には産業組合が設立されたが,同17年久志村農業組合に統合される。沖縄戦下,嘉陽にも沖縄本島中・南部からの疎開者・避難民が流入し,同20年8月には天仁屋とあわせて4,381人に達した。しかし,帰還が許されるとともに,翌年1月には1,646人,同22年10月には戸数113・人口487となった(久志村誌)。同26年一部が三原となる。同32年嘉陽でバスが運行されるようになった。同年嘉陽診療所開設(現在閉鎖)。同39年オリンピック東京大会の折,嘉陽に聖火台が設けられた。これを記念して,嘉陽小学校横に聖火宿泊記念碑をたて,久志マラソン大会も始まって,恒例の行事として今日に至っている。戦後の農業も米作りを中心に,サトウキビやパイナップルの栽培を拡大しながら進めてきたが,水田は昭和57年作が最後となった。世帯・人口は,昭和45年65・198,同55年51・135。同年の就業者総数77うち第1次産業従事者46・第2次産業従事者8・第3次産業従事者23。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7464170