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許田村(近世)


 王府時代~明治41年の村名。国頭【くにがみ】方名護間切のうち。「高究帳」には久田村と見え,高頭40石余うち田38石余(永代荒地7石余を含む)・畑1石余。草分けの人々がどこから移り住んだか伝承はないが,400~500年前には3軒の家が想定されている(名護六百年史)。その3戸が根屋のマシドゥイヤー・メームトゥ(前元)・メーヌヤーとされている。「港きよらさや湖辺底泊きよらさや那覇の泊」(琉歌全集1371)と謡われる湖辺底港は,地形が小瓶の底に似ていることからこの名がある(国頭郡志)。慶長14年の島津侵入以後,国頭産の米は仕上世米として,同港か運天港から直接薩摩へ積み出された(名護市史資料編1)。平敷屋朝敏の「手水の縁」の題材となった伝説の伝わる許田の手水(市史跡)があり,琉歌にも謡われ(琉歌全集36),また乾隆5年(1740)安仁屋賢孫の紀行文にも見える。本集落の手水原北側山中にクシヌウガンがあり,久志の若按司がダキアンマーに連れられて来て,マシドゥイヤーの先祖に育てられたという伝承がある。「由来記」のヨリアゲマキウノ嶽はクシヌウガンに当たり,同書にはほかに泊口湊口ノ嶽があるが,現在はない。喜瀬ノロの管掌であったが(由来記),いつの頃からかマシドゥイヤーから神役が出るようになった。明治12年沖縄県,同29年国頭郡に所属。地割は7年ごとに割り替え,15歳以上の男子は,1地が田271坪余・畑311坪余(南嶋探験)。廃藩置県後,禄を失った士族が首里・那覇【なは】から移り住み,福地原・湖辺底原に屋取を形成。士族人口比は,間切内でもきわめて高い。戸数・人口は,明治13年61・280(男152・女128),同36年99・587(男309・女278)うち士族40・277。明治36年の民有地総反別224町余うち田17町余・畑53町余・宅地2町余・山林8町余・原野143町余(県史20)。同41年名護村の字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7464234