久志(近代)

明治41年~現在の字名。はじめ久志村,昭和45年からは名護市の字。沖縄戦中,久志は沖縄本島南部の東風平【こちんだ】村の疎開者を受け入れる段取りであったが,昭和19年10月10日の大空襲後,本島中・南部からの避難民が多数押し寄せた。情勢の急迫により,同20年3月末には久志岳山中に避難,5~6月にかけ,米軍の呼びかけに応じて住民は下山し,収容生活に入った。米軍占領下,地元住民に加えて避難民で膨れ上がり,米軍政府の制定した久志市が置かれた。避難民は同年末から翌年はじめにかけて大部分が出身地に帰還した。同21年1月の人口2,307,同22年10月の戸数194・人口796。西部に伊江村民3,200余名が収容されていたが,彼らが伊江島に帰還したのは,同22年3月のことである。同年米軍にミアランシンと呼ばれていた豊原が行政区となり,同26年地籍字となる。同32年5月,隣の辺野古に米軍マリン隊キャンプ(現キャンプ・シュワーブ)の建設工事が施工されるのに伴い,各地から移住者が急増した。久志では,その住宅用地などを用意すべく同年12月久志都市計画事業を決議し,大道原・大川田原・福地原の約11haの土地に約1万5,000ドルの工費で区画整理事業に着手した。数年間は工事関係者や米兵を顧客とするレストランやバーなどが30軒ほど立ち並びにぎわったが,隣の辺野古の繁盛とは裏腹に,その後は衰退し,現在は地元の次・三男たちの分家住宅となっている。戦前の久志の生活は,米・サツマイモ・サトウキビ作と山仕事が主で,特に薪炭は山原船で本島南部の与那原に運ばれ,重要な現金収入源であった。戦後,昭和35年以降,新たにパイナップルや柑橘類の栽培が加わったが,水田は昭和57年作を最後にとだえた。秀麗な久志岳は,現在キャンプ・シュワーブの実弾演習場として米軍に使用されており,その中腹まで砲弾により赤い地肌をさらしている。世帯・人口は,昭和45年162・664,同55年186・666。同年の就業者総数262うち第1次産業従事者95・第2次産業従事者54・第3次産業従事者113。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7464250 |





