具志川間切(近世)

王府時代~明治41年の間切名。中頭【なかがみ】方のうち。具志川郡・具志川県とも書く(旧記・球陽)。「絵図郷村帳」では江洲・喜屋武【きやん】・兼箇段【かねかだん】・栄野比・川崎・安慶名【あげな】・天願・宇堅・田場・具志川・上江洲【うえず】・たうはる(仲嶺)・大川うへす(大田)・前天願・平良【たいら】・赤平の16か村。「高究帳」では合高4,073石余うち田1,548石余(永代荒地83石余を含む)・畑2,524石余。のち勝連間切から宮里・高江洲の2か村が編入され,また他村に合併した村もあり,「由来記」では江洲・喜屋武・兼箇段・栄野比・川崎・安慶名・天願・宇堅・田場・具志川・上江洲・仲嶺・大田・宮里・高江洲の15か村。「中山伝信録」では安里・祝嶺・田崎の3か村,「旧記」では仲順村・平良村も記されるが,のちの資料には見えず,先の15か村をもって近代に至る。両惣地頭持の間切で,按司地頭・総地頭ともに具志川を家名とした(南島風土記)。間切番所は具志川村に置かれた(旧記)。乾隆54年(1789)の検者への状によれば,田2,900坪余と放棄されていた畑2万5,800坪余が開かれている(柯姓大宗家譜/那覇市史資料1‐7)。また嘉慶14~15年(1809~10)には,具志川・安慶名・田場の大田原にある150石余の天水田に用水路を開いている(球陽尚灝王17年条)。同22年浦添【うらそえ】・豊見城【とみぐすく】・美里3間切から黒糖の製法が伝わる(球陽尚灝王14年条)。「琉球一件帳」によれば,納砂糖高は2万2,519斤で,中頭方では第10位であった。同治6年(1867)の下知役・山筆者への褒状によれば,石城山の内,大和炭かま山の390坪と天願長尾入口山の600坪に楠の苗,同所阿たん地山の504坪に椿の種子,同所東り山の500坪に桐の実をまき,また天願長尾阿たん地山の唐竹敷を田場御嶽360坪の地に敷き替えたとある(曹姓大宗家譜/那覇市史資料1‐7)。拝所は,御嶽・森が23,ノロ火の神が7,殿が15あり,7人のノロが管掌し,村の祭祀を司った(由来記)。明治12年沖縄県,同29年中頭郡に所属。王府時代から払請地に首里・那覇【なは】・久米村などから移住者を募集したといわれ,明治33年には士族人口比率が48%と,北谷【ちやたん】間切に次いで第2位であった(沖縄の集落研究)。明治31年に報告された杣山開墾状況は,許可面積15万6,207坪のうち既開地1万935坪,移住者は8戸・31人であった(県史16)。戸数・人口は,明治13年2,282・1万1,306(男5,909・女5,397),同36年2,725・1万5,689(男7,815・女7,874)うち士族1,233・7,563。明治36年の民有地総反別2,581町余うち田294町余・畑1,710町余・宅地136町余・塩田11町余・山林274町余・原野145町余・雑種地7町余(県史20)。同41年島嶼町村制により自治体の具志川村となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7464253 |





