城村(近世)

王府時代~明治36年の村名国頭【くにがみ】方名護間切のうち名護三箇の1つで,名護城のある丘陵の西斜面下方が古島といわれる村名は「絵図郷村帳」に見えるが,その後名護村の一部となる王府時代末には,名護村が東江【あがりえ】・大兼久・城の3か村に分かれていたらしい同治4年(1865)杣山の植林は,ひらたちや山唐竹敷500坪に唐竹苗10本,きちる川桐木敷500坪に桐木苗40本,楷木山訴開地1万5,000坪にいちよ苗5,000坪で,ほかに大工又山「道并間ふけ仕置」のため松御禁止敷500坪と定められたまた,同年きちゝ川山の杉木6本,安和かし川かんたん見立あこし川山杉敷の松木1本,あたし川山同杉木敷の松木1本が,大風で倒された(地方経済史料9)明治12年沖縄県,同29年国頭郡に所属東江村・大兼久村より遅れて,名護城のある丘陵から海岸の砂地に移動した城村は,宅地が狭く,明治2年以来大兼久村に対して土地の交換を申し入れてきた同2・13・26年の3度の交渉と2度の訴訟で,城村に有利な結果を得ることができた(名護六百年史)明治13年の戸数80・人口497うち男265・女232(県史20)同36年名護村の一部となる

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7464275 |





