幸喜(近代)

明治41年~現在の字名。はじめ名護村,大正13年名護町,昭和45年からは名護市の字。昭和6年に水稲台中65号を導入して以来,米の二期作が可能となり,サツマイモは昭和7年奨励品種沖縄100~105号などの品種改良により生産の増大が期待されたが,ソテツ地獄と称される大正中期頃から県外流出者が多く,労働力不足で自給自足もままならぬ状態となった。昭和7年県の生活改善指導集落に指定された。同8年全県下に先がけて,便所の改善,回虫駆除を実施し,同9年には共同浴場・託児所の諸施設を整備。また,産業5か年計画を樹立して発展を図った。昭和7年の産米249石であったものが,同9年に354石となり,サツマイモも他村に売り出すほどの状況に達した。この結果,視察団がきびすを接する有様であったという。戦時下において昭和19年の10・10空襲後,近郊の山陰に避難壕を構築,翌20年3月23日の大空襲により全住民が山中深く避難した。避難場所は各戸転々としているが,幸地原・喜納田原以東から宜野座【ぎのざ】村との境にかけて山ごもりを強いられた。昭和20年6月26~27日米軍により宜野座村に収容された。召集兵24人,避難民11人,収容期間中9人の戦争犠牲者を出した(幸喜部落のあゆみ)。昭和21年旧敷地に学校が設置され,生産活動も開始され,サツマイモ・米を中心とした自給的生産から,商品作物のサトウキビ(昭和48年1,121t)・パイナップル栽培へと農業生産構造も変化してきた。現在ではビニールハウス団地を集落南東側に設け,野菜生産(ピーマン)に力を入れている。昭和50年の沖縄国際海洋博覧会関連事業として実施された幸喜集落沿いの国道58号の拡張および集落北側の沖縄縦貫高速道路の開設にもかかわらず,集落内は今も静かなたたずまいを残している。幸喜海岸は,シーズンになると大勢の海水浴客が押し寄せ,国道沿いの一本松は訪れる人の目を楽しませる。世帯・人口は,昭和45年68・305,同55年75・270。同年の就業者総数140うち第1次産業従事者65・第2次産業従事者15・第3次産業従事者60。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7464326 |





