竹富村(近代)

大正3年~昭和23年の八重山郡の自治体名。八重山村が石垣・大浜・竹富・与那国の4か村に分村して成立。竹富島の竹富,黒島の黒島,新城【あらぐすく】島(上地【かみじ】島・下地【しもじ】島)の新城【あらしろ】,波照間【はてるま】島の波照間,小浜島の小浜(嘉弥真島を含む),鳩間島の鳩間,および西表【いりおもて】島の南風見【はいみ】・上原・西表・崎山・古見・高那・仲間の13字を編成。役場は,はじめ竹富に設置されたが,竹富村は8つの有人島からなり,しかもこれらの島々を結ぶ唯一の交通手段である定期船が,いずれも石垣港に発着することから,村民の便宜を図るため,昭和13年石垣町登野城【とのしろ】の石垣町役場隣に移転した。明治42年高那の高那集落,大正9年南風見の南風見集落廃村(石垣市史資料編・八重山歴史)。同14年に西表村,昭和6年に波照間村分村の建議がなされたが,いずれも立消えとなった(竹富町の島々と共に)。この時,西表村として分村の対象となったのは,西表島西部の上原・西表・崎山の3字と鳩間であったが,西表島西部地区は県内唯一の炭坑である西表炭坑があり,開発が進んで発展の一途をたどっている地域であった。西表炭坑は明治18年に三井物産が試掘を始めて以来,新坑開坑が相次ぎ,採炭量が増加した。大正5,6年には約10坑があり,同13年の仲良川沿岸域における採炭量は約4万2,000t,使用人員は1日平均868人であった。第2次大戦前に各坑は統合され,三鉱業所が併立となったが,大戦が勃発すると採掘事業は困難となり,昭和17,8年頃各坑とも採掘中止となった(新八重山歴史)。昭和16年南風見に大原集落創設(竹富町誌)。大戦中は村民は疎開を強いられて小浜・竹富・西表島民は各集落周辺の山林・洞窟,他の島民は西表島に移ったが,避難地はマラリアの有病地であった。このため避難地でマラリアに倒れる者が多く,昭和20年の人口7,876のうち半数近くの3,653人が発病し,このうち785人が死亡している。特に波照間島民の発病率は99.8%(発病者の約30%が死亡)と高く,鳩間島民93.9%,小浜島民79.9%がこれに次いだ(新八重山)。沖縄戦終戦直後,村行政は一時小浜島に移された。昭和22年黒島・竹富島から移住し,古見の由布【ゆぶ】島に由布集落創設,同年崎山の崎山集落廃村。世帯・人口は,大正9年1,812・9,331,同14年1,638・9,043,昭和15年1,750戸・9,237。昭和23年町制施行。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7464576 |





