中城間切(近世)

王府時代~明治41年の間切名。中頭【なかがみ】方のうち。中城郡・仲城郡とも書く(旧記・球陽)。「絵図郷村帳」には伊集・和宇慶【わうけ】・津覇・奥間・安里・当間・新垣【あらかき】・屋宜【やぎ】・泊・照屋・添石・中城・大城【おおぐすく】・荻堂・安谷屋【あだにや】・前普天間【まえふてんま】・寺普天間・瑞慶覧【ずけらん】・喜舎場・仲順【ちゆんじゆん】・和仁屋・久場・渡口・宮城【みやぐすく】・島袋【しまぶく】・諸見里【もろみざと】・玉城【たまぐすく】の27か村が見える。「高究帳」では合高3,106石余うち田2,158石余・畑947石余。その後,諸見里村を越来【ごえく】間切に編入,前普天間村・寺普天間村を宜野湾【ぎのわん】間切に編入した。そのほか村の新設・廃合,村名の改称などがあり,「由来記」では伊集・和宇慶・津覇・奥間・安里・当間・新垣・屋宜・泊・照屋・添石・伊舎堂・大城・安谷屋・瑞慶覧・喜舎場・仲順・和仁屋・久場・渡口・島袋・熱田・比嘉の23か村が記されている。荻堂・宮城両村は,「由来記」には記されないが,「旧記」には見える。照屋村が添石村に,宮城村が渡口村に編入され,23か村をもって近代に至る。中城間切は古くから国王の世子領で,世子は中城王子と称した。「中山伝信録」に「この処人物俊秀にして,詩を能し書を善す。常に王孫の采地たり」とあり,「混効験集」にも「中城の美御前加那志 御太子之御事」とある。「南島風土記」によれば,寛文8年の布令で「中城と申名字衆中百姓下々迄も,御法度にて候間,別名に替申候様可被申渡候」とあり,人名・村名に中城を名乗ることが禁止され,以後中城村を伊舎堂村に改称した。間切番所は添石村の中城城跡に置かれた。「由来記」には中城城内の拝所が9,ほかに御嶽・グスクなどが28,ノロ火の神が7,殿が26,根所が15などがあり,7人のノロが管掌する村の祭祀を司った。また,神社の項にギイス寺・安里ノ寺・津覇ノ寺・和仁屋間ノ寺などが見える(由来記)。明治12年沖縄県,同29年中頭郡に所属。東部の海岸部や西部の普天間川流域の山間部に屋取が形成されたが,明治33年の士族人口比率は18%と比較的低い(沖縄の集落研究)。同37年沖縄からの第3回ハワイ移民団262人に,中城間切から5人が加わっている。戸数・人口は,明治13年2,546・1万2,844(男6,479・女6,365),同36年3,350・1万7,760(男8,894・女8,866)うち士族571・3,703。明治36年の民有地総反別2,329町余うち田140町余・畑1,497町余・宅地146町余・塩田1反余・山林281町余・原野256町余・雑種地5町余(県史20)。同41年島嶼町村制により自治体の中城村となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7464758 |