仲村渠村(近世)

王府時代~明治41年の村名。久米方具志川間切のうち。村名は「絵図郷村帳」などに見えず,「由来記」には仲村渠掟・仲村渠目指という役人が見える。古く具志川城東方のクミシバル(米須原)付近に上村渠【うえんだかり】・仲村渠・前村渠【まえんだかり】の小集落があり,交通の便から当地に人口が集中し,仲村渠村になったものと考えられる。具志川村は仲村渠村の掟・目差の管轄であったが,下知に不便なため,乾隆34年(1769)具志川村にも掟・目差を置いた(球陽尚穆王18年条)。この記事に,仲村渠村と具志川村の間に上村渠という小村があると見えるが,乾隆8年「久米具志川間切旧記」に「仲村渠村之内上村渠之住人」とあることから(沖縄久米島資料篇),上村渠は仲村渠村の一部に編入されていたと思われる。乾隆年間以後,山垣原塘井からの用水路堤防の改修,山内原の川辺からの用水路など,用水確保の工事が繰り返された(球陽尚穆王26年条・尚泰王11年条)。明治12年沖縄県,同29年島尻郡に所属。同31年9月砂糖樽検査所設置(県史16)。戸数・人口は,明治13年38・141(男75・女66),同36年39・236(男98・女138)。明治36年の民有地総反別216町余うち田24町余・畑41町余・宅地3町余・山林56町余・原野89町余(県史20)。同41年具志川村の字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7464819 |