西村(近世)

王府時代~明治29年の村名。那覇のうち。那覇四町【なはよまち】の1つ。那覇町を東西に二分した西側の地域。「喜安日記」には那覇・泊・若狭町などは見えるが,東・西の呼称はまだ見えない。爬竜船競漕も東西一緒になって那覇を称することから,東・西の呼称はそれほど古くはないと考えられる。万暦42年(1614)ウィリアム・アダムズ(三浦按針)が那覇に寄港し,御物城(那覇役所長)・大文(大筆者)・小文・東トノ(Fingashe doono)・西トノ(Nishe doono)から贈物を受けている(琉球諸島航海日誌)。東トノ・西トノは,若狭トノ・楚辺勢頭とともに問役(親見世の役職)である(由来記)。村の北に辻山があり,西側一帯はシマーと呼ばれる海で,長浜大夫が爬竜船を浮かべたといわれる(同前)。東は親見世前の大通りで東村と境し,南は那覇港の通堂崎で,迎恩亭がある冠船などの船着場。冊封使一行はここに上陸し,迎恩亭で琉球側の歓迎を受けた。迎恩亭は通堂屋とも呼ばれた。通堂崎から臨海寺(沖宮)に向けて浮道があり,臨海寺から観月の名所臨海橋を経て中三重城,さらに橋で三重城に続く。臨海寺の鐘には,天順3年(1459)の銘がある。冊封使もここに観潮に訪れた(中山伝信録)。東村の境に薩摩の在番奉行所(仮屋)が置かれていた。在番は,鎖国令下での外国船の監視のため,横目2人・附役3人・書役1人・足軽2人を従えて着任した。東・西両村は,在番奉行接待のため,親見世前の馬場で大綱引きを催した。この時,久米・若狭町・泉崎の各村は,それぞれ各村を二手に分けて両村の加勢をした。西村の旗頭は八卦・日輪など,旗字は凱歌・進神仏桃・牡神威という。綱引きは百姓・士族の区別なく,夜に行われる。行列は炬火をともし,金鼓・どうがね・大鼓・鉦子に,法螺を吹きならして,砲音轟々・煙塵漠々たるものであった(那覇変遷記)。康熙11年(1672)宿泊の地として辻・仲島を開いたが,のち遊里となった(球陽尚貞王4年条)。辻は西村の属地であった。「琉球一件帳」によれば,戸数259・人口1,937,地頭家8(那覇市史資料1‐2)。在番奉行所は,明治5年琉球藩設置に伴い外務省出張所となり,同7年内務省出張所となる。その後,同12年沖縄県設置により沖縄県庁が置かれたが,県庁はのち泉崎に移転した。廃藩置県後,西の海の一部が埋め立てられ真教寺が建ち,昆布座は廃止されて倹徳館という貴賓館になる。明治10年西南戦争のあと,鹿児島などからの寄留商人が増え,西村に商店を構え,日用品や砂糖の取引きに従事した。明治13年の戸数1,100・人口4,030うち男1,813・女2,217(県史20)。同29年那覇区の字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7464856 |