与那原村(近世)

王府時代~明治41年の村名。島尻方,はじめ島添大里間切,のち大里間切のうち。「高究帳」に島添大里間切与那原村と見え,高頭480石余うち田325石余(永代荒地25石余を含む)・畑155石余。「由来記」では大里間切与那原村と見える。康煕6年(1667)に地頭となった駱姓3世春明は,与那原村・上与那原村・大見武【おおみたけ】村の地頭を兼任した(駱姓大宗家譜/那覇市史資料1‐5)。大里間切の番所ははじめ南風原【はえばる】村に置かれていたが,乾隆元年(1736)与那原村に移された(球陽尚敬王24年条)。与那原村は古くから与那原港を中心に太平洋に面する交通・交易の要衝地として知られる。嘉慶8年(1803)久志【くし】間切嘉陽村・安部村の村民が,公用の楷木を納めるために入港している記事が見え(球陽尚成王元年条),さらに聞得大君の就任式である御新下りの際の仮屋(御殿山)などを建設するための材木も入津している(大里村史)。乾隆5年には海面が3丈6尺も上がるという潮水異常が発生した(球陽尚穆王40年条)。港の繁栄の反面,海難の記事が多くある。咸豊5年(1855)には中国福建省へ漂流し,同治11年(1872)にはベトナムへ漂流が2件(中山世譜),さらに光緒元年(1875)にも長崎へ漂着するなどの事故があった(球陽附巻尚泰王28年条)。村の拝所としては浜ノ御殿・オヤガワ・アキリ嶽・友盛ノ嶽御イビ,与那原・上与那原両村の上与那原ノ嶽があり,いずれも与那原ノロの崇べ所(由来記)。オヤガワは,聞得大君の御新下りの際にお水撫でが行われる重要な拝所で,「御新下日記」に記された「道くわいな意趣」にも親川とある。「道くわいな意趣」は,御新下りの時の,首里から斎場【さいは】御嶽までの道行きを謡ったもので,この地のものと思われる地名はほかに与那古浜・なかますじ・すもくずいなどがある(クェーナ28/歌謡大成Ⅰ)。友盛ノ嶽御イビは,古く久高島へ渡航中に日本へ漂流した聞得大君が,与那原村で一生を終え,その骨を祀ったものとされている(同前)。明治12年沖縄県,同29年島尻郡に所属。古島・運玉の屋取が形成された(各町村字並屋取調)。明治15年に報告された廃藩置県以前のサトウキビ畑1万5,029坪・出砂糖高1万5,028斤余(地方経済史料10)。同31年9月砂糖樽検査所設置(県史16)。同36年大見武村を編入。戸数・人口は,明治13年499・2,462(男1,196・女1,266),同36年785・4,067(男2,035・女2,032)うち士族447・2,368(県史20)。両年次ともに大里間切中最大の戸口で,特に明治36年は間切のほぼ3分の1を占めるが,これは古島・運玉などに屋取が形成されたことに加えて,大見武村を編入したことによる。明治36年の民有地総反別243町余うち田8反余・畑187町余・宅地15町余・山林2町余・原野35町余(同前)。同41年大里村の字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7465259 |





