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琉球国


慶長8年徳川幕府が成立すると,同14年には島津氏が琉球国に攻め入り,琉球国も幕藩体制国家に組み込まれた。島津氏は検地を実施し,寛永6年奄美五島を除く沖縄本島を中心とする石高8万3,086石を尚寧王の知行高と定め,それによって芭蕉布などの琉球国の主産物を貢租とした。ここに,現在の沖縄県域に等しい琉球国の版図が定められた。島津氏は琉球国の外交権・貿易権の管理を行い,島津氏ならびに徳川将軍家に対する年頭使・謝恩使・慶賀使の派遣を定め,幕藩体制的な支配強化を図った。琉球支配の実務は那覇【なは】に置かれた琉球仮屋の薩摩在番奉行が行い,また王府は薩摩に琉球館を構え,島津氏と尚氏との間にはあたかも将軍と大名のような関係がつくり出されていった。一方で琉球国は,明国が亡んだあとも清国と冊封・朝貢関係を結んだため,島津氏と清国に両属する関係が続くことになる。国内においては,康煕5年(1666)向象賢(羽地朝秀)が摂政となり,旧来の王府体制の改革と耕地の拡大を図り,王府権力の近世的な脱皮を目指した。石高は,寛永12年の盛増で9万884石,享保12年の盛増で9万4,230石となった。2度の盛増は検地に基づかないものであったが,元文検地の終わった乾隆15年(1750)には田畑合計2万492町歩であった(比嘉春潮全集1)。この当時の人口は,蔡温の「独物語」に20万人とある。近世の琉球国は,対中国貿易を維持するための銀の確保と,貿易品や国内消費物資の確保のために,日本本土の市場に強く依存する体制ができあがり,国内での砂糖・藍・鬱金・琉球反布・泡盛などの特産物の生産の増加に力を注いだ。これらの特産物の流通に重要な役割を果たしたのは,薩摩の琉球館に出入りを許された商人や,島津氏から年貢や諸物資の運送を認められた大和船の船頭・水主たちで,彼らは珍しい南島の産物を抵当に,銀を用立てたり,琉球の非自給物資と交換を行うなどして琉球国の経済に重要な役割を果たした。しかし藩財政の窮乏化が著しくなる近世後期になると,島津氏は琉球の特産物に口税をかけ,特に砂糖などの有力商品については部分的な貢租化や販売の制限を行うなどして,藩利を優先させる立場をとるようになった。近世後期には,琉球国内の諸間切・諸島も疲弊し,王府の財政も窮乏した。琉球国は,実質的には幕藩体制国家の範疇にありながら,清国との関係も維持していたため,明治4年の廃藩置県を受けなかったが,翌年には特別に琉球藩が設置された。同12年廃藩置県が断行されて沖縄県となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7465274