100辞書・辞典一括検索

JLogos

8

佐野村
【さのむら】


旧国名:出羽

(中世~近世)戦国期から見える村名。出羽国山本郡のうち。天正18年12月19日豊臣秀吉が角館(かくのだて)城主戸沢光盛の当知行を安堵した朱印状写(戸沢文書)に,「佐野村」1,058石余(うち田86町2反・畑5町)とある。文禄3年六郷城主六郷氏方で作成した「仙北中郡村々書上写」(湊家文書)にも「佐野むら」1,058石について「旧本堂領也,横手掠之,後戸沢取之,戸沢領之」と記載。特に後者では近世秋田藩政下での寄郷佐野村は南町村の村名下に記載しているので,上記の佐野村は近世には鑓見内(やりみない)村と横堀村との枝郷佐野村として村名を継承した村に所在地を比定せざるをえない。窪堰(くぼぜき)川中流域南岸の低湿地帯に位置する小村であり,本堂城から北方3kmの位置にある。「旧本堂領」というのも事実であろう。ただし記載の1,058石は佐野村固有の石高ではない。天正19年に作成されたとみられる「仙北郡村数日記写」(色部文書)に沖野郷28か村中に「さのむら」が記載。この28か村を地図上に落としてみると,佐野村は沖野郷南端の村となり,上記の村と重複する。同一村であり,並記の村々とともに,いずれも近世の枝郷に該当する小村である。この石高は,近世初期の石高と照合してみると,「仙北郡村数日記写」中の佐野村から北方の上大婦気(かみおおふけ)村に至る17村分に該当し,その村々分の統計数値を佐野村に付したものとみられる。近世秋田藩政下の沖野郷村と村杉(むらすぎ)・野口両村の一部に該当する地域である。窪堰川が氾濫する低湿地帯は近世以降本格的に開発が進められ,村切りが行われる過程で,佐野村も鑓見内村と横堀村に分割された枝郷名として村名を継承することになったものとみられる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7600973