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加治屋開墾
【かじやかいこん】


明治期の開墾名。現在の大田原市大字加治屋および西那須野町下永田・永田町周辺にあたる。那須野ケ原台地の南部に位置する。加治屋開墾の名は,その創業者大山巌と西郷従道の出身地である鹿児島市の加治屋町からとった。この地域は,江戸時代から明治初年にかけて那須野ケ原の一部をなす広漠たる原野であった。明治14年,那須野ケ原開拓を大々的に進めんとしていた那須開墾社(明治13年に官有原野3,000町歩の貸下を受ける)がこの一帯900町歩の追加貸下を受けた。同年,陸軍卿の大山巌(旧薩摩藩士・後の元帥・公爵)と農商務卿の西郷従道(旧薩摩藩士・後の元帥・侯爵)が,この内の500町歩を譲り受け,加治屋開墾(開墾場)と称して,開拓事業に着手した。その区域は,大田原町南西部(約200町歩)と同北西部(約300町歩)に分かれていた。後の明治17年,前者を加治屋区,後者を永田区と称した。明治15年,旧日光街道沿い(加治屋区)に事務所を建築し,翌年から馬耕や,囚人・農夫の労力によって原野を開墾した。また洋種牛(15頭)や綿羊を導入して,牧畜を試みた。しかし,開墾・牧畜事業とも予期したような成果は挙がらず,数年後になって植林と移住人導入による小作経営に力が入れられた。明治18年,加治屋開墾区域は那須開墾社区域と合わせて,那須野村という一村を創立した。同22年の市制町村制施行の際,他の村と合併することなく,村名だけが西那須野村と改められた。但しこの際,大字は設定されず,加治屋区・永田区(明治30年に永田区・下永田区に分離)といった通称名が大字的に扱われた。明治19年,東北線が敷設され,永田区に那須駅(現在の西那須野駅)が開設された。以後,駅周辺は市街化が進んだ。同年,加治屋区に那須疏水第4分水の枝線である加治屋堀が開削された。移住人は明治10年代に数戸あったが,多く入ったのは25年以降である。移住人は,農場の小作者として開墾事業に精を出した。出身地は富山県が多く,勤勉な富山県人は開墾に励むと共に,副業として炭俵編みを行った。明治34年,農場所有者の大山と西郷は将来を考え,土地を分割することにした。抽選の結果,加治屋区が西郷,下永田区が大山,永田区が両者折半となった。これ以後,西郷の持分が西郷農場(250町歩),大山の持分が大山農場(同)と呼ばれた。大山農場は後に土地を購入し,274町余となった。昭和5年の主要土地利用をみると,大山農場が水田4町余・畑62町余・山林194町余・牧場7町歩,西郷農場が水田44町余・畑95町余・山林101町余であった。西郷農場の水田が多いのは,加治屋区の地下水が比較的浅く,集水渠(隧道)によって用水を得ることができたためである。西郷農場への移住農家は,明治35年で14~15戸,大正9年で32戸,昭和5年で80戸であった。昭和7年,町制施行によって西那須野町となったが,引き続いて大字は設定されなかった。同10年,加治屋区の小作者は,自作農創設の制度に基づき農地の解放を農場主に願った。その結果,2代農場主の西郷従徳はこれを認め,同12年に水田60町歩・畑90町歩が解放された。西郷家では公共用地を町に寄付をしたり,残地も売却し,同26年には土地が皆無となった。昭和30年2月,町村合併促進法に基づき,西那須野町と狩野(かりの)村が合併し,新たな西那須野町が発足したが,加治屋区は大田原市街地に近いため大田原市への編入を強く希望した。そして同年4月,大田原市へ編入され,加治屋はその大字となった(西那須野町史)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7601555