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岩国港
【いわくにこう】


県東端に位置し,岩国市から玖珂(くが)郡和木町にかけて広島湾に臨む重要港湾。港域は,岩国デルタを形成する錦川河口南岸から,広島県境を東流する小瀬(おぜ)川河口南岸までを含む。慶長5年,吉川広家入封時の岩国は遠浅の海岸で,沿岸州が発達し,海岸線は内陸部の山麓沿いにあった。同17年の「前なわ」から,文久4年の「南御開作」造成まで,約250年間にわたり,約1,100町歩の干拓地が完成,その後の工業地化により現在の海岸線が形成された。江戸期,錦川左岸の今津湊には御茶屋・川口番所・灯籠堂米蔵・麦蔵があり,錦川上流の山代地域からの物資集散地として栄え,享保9年には廻船32隻・番船48隻を保有。その後,今津湊下流に開作地が広がり,船の出入りが不便となったため,文化8年麻里布(まりふ)湊が開港し,これに伴って港の機能を失った。麻里布湊は,文化元年岩国藩士樋口祥左衛門が職役香川舎人を動かし,築港に着手。同9年,新港観音堂の法印大寂の「感応堂記」には,「麻里布の湊」の記載があり,背後の丘に寺社が移され,ふもとには町ができて会所が建ち,船問屋・芝居小屋が軒を連ねたという(玖珂郡志)。船問屋塩屋甚左衛門は宮島・広島(広島県)へ毎日定期船を就航させ,嘉永2年には塩屋又兵衛と茶屋利介が毎月一回大坂通いの定期船を開始。慶応4年には越後表への出征兵士200人が出帆,明治2年には奥羽地方派遣の精義隊と敬威隊が帰港した。麻里布湊は,明治期には新港と呼ばれ,瀬戸内海航路の要衝の地として発展。同18年頃には北海道やハワイ移民船の基地,中国汽船航路の寄港地として栄えたが,同30年山陽鉄道の開通により一時衰微した。その後,大正期の人絹工場をはじめ,昭和に入り紡績やパルプ工場などの立地が進み,新港は再び活況を呈した。昭和5年内務省指定港となり,国策土木事業として浚渫を実施。同15年新港を岩国港と改称,同16年大型岸壁100m(水深9m)を築造。戦後は,同22年貿易港指定,同24年旧陸軍燃料廠使用岸壁の払下げを受けて港域を拡大し,同27年重要港湾,同35年検疫港,同37年植物貿易港にそれぞれ指定された。昭和35年岩国・和木地区に石油化学コンビナートが完成し,大型タンカーの入港も頻繁となり,貨物量も増大した。同60年の出入貨物量1,188万5,273t,うち外貿281万1,936t・内貿907万3,337t,外貿では原油・原木・木材・重油の輸入が98.8%,内貿では原油・重油・石油製品の移入が81.1%,石油製品・重油の移出が83.9%。同年の入港船舶数1万8,341隻,入港船舶総トン数1,085万5,183tで,1万t以上の入港船数116隻,うち105隻は外航商船。岩国港は全般に水深が深く,瀬戸内海本船航路と至近距離にあり,大型船の入港が容易で優れた港湾条件をもち,県東部における流通の中心としての港にふさわしい機能を備えている。また,各企業が専用の港湾施設を有している。岩国新港と三津浜(愛媛県)を結ぶフェリー6往復運航も伊保田に寄港。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7606224