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平生塩田
【ひらおえんでん】


平生湾沿岸一帯に所在した塩田の総称名。かつては播州赤穂や三田尻(防府(ほうふ)市)に次ぐ大生産地であった。大別して,防長2か国最古の入浜塩田で御蔵入(本藩直轄領)の平生古浜,平生塩田では最大規模で岩国藩領の新市浜(竪ケ浜),本藩撫育局直営の工事として開かれた曽根御開作浜,大野毛利家領など給領地の平生沖浜の4つの地区に分けられる。平生古浜は,湾の最奥部に大野毛利氏による平生開作の一環として,慶安4年から万治元年にかけて築かれたもので,うち塩田は約20町歩(平生町史)。同塩田は,のちに上知され萩藩領となった。築立て当初は17軒であったが,享和3年に1軒,文化元年に2軒増加して20軒となる(塩製秘録/防長塩業史料集)。平生古浜は湾の最奥部に位置していたため,沖に新たに塩田が開かれると,湾内に流れ込む川水によって海水の濃度が薄いうえに,悪水も一層引かず,入川も埋まって舟の通行にも支障をきたすようになった。そのため,古浜の中でも最も奥にあった上下東浜計5軒が,安政元年田畑に転換,以後順次廃止され,昭和34年第3次塩田整理によって廃絶した。浜鎮守として,延宝元年に濃島大明神(野島神社)が,かつての小島であった野島に鎮座する。平生古浜に次いで開発されたのが新市浜で,元禄10年岩国藩により竪ケ浜開作の地先につくられた35町余の大規模な塩浜であった(平生町史)。当初は36軒だったが,文化13年の「塩製秘録」(防長塩業史料集)で19軒と減少しているのは,従来の浜の2軒を1軒にして,1軒当たりの浜面積を2町歩近い大浜にしたためである。昭和5年までに半数が廃止,昭和34年第3次塩田整理で全廃された。浜鎮守として,かつて海中の小島だった玖珂(くが)島に玖珂島大明神(玖珂島神社)が祀られている。平生古浜の南,曽根御開作浜は,天明8年本藩撫育方によって開発された21町余,11軒の塩浜。うち9~11番浜は明治初年,7・8番浜は昭和5年に廃止され,残りは同34年まで存続した。平生沖浜には,熊毛郡平生町の曽根・百済部・田名・阿多々,同郡田布施(たぶせ)町の麻郷・馬島に点在する塩田が含まれる。地域的に分散し,築立年代も規模もまちまちである。平生塩は一般に竪ケ浜塩と呼ばれ,北陸(越前・越後)・山陰を主要な市場とし,一部九州へも移出されていた。特に19世紀初め頃は,福井藩が買い上げる塩のほとんどが三田尻・竪ケ浜・小松の防長塩で占められていた(平生町史)。塩田の所有形態は,新市浜は築造とともに新市の豪商熊屋甚兵衛らに,御開作浜は萩の豪商熊谷家並びに下関の内海家に,平生沖浜の二三枡塩田は岩田村(現熊毛郡大和町)の豪農国光家へ払い下げられた。なお明治20年には,熊谷家が8塩戸・21町3反余,国光家が8塩戸・17町8反余,地元出身の弘津家が7塩戸・14町5反余を所有し,この3家が平生塩田の約45%を所有していた(瀬戸内塩田の経済地理学的研究)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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