100辞書・辞典一括検索

JLogos

9

稲数
【いなかず】


旧国名:筑後

(中世)戦国期に見える地名。筑後国のうち。弘治3年2月12日の豊饒鑑述書状(富来文書/大分県史料10)によれば,大友義鎮から富来氏に「上筑後之内稲数之村十町」が給されているが,同書状には「彼在所言語道断之悪所」とある。また同日付の稲数田畠坪付注文(同前)があり,これによると同村の内はこ田・今寺口・宮之下・大ふ・寺田・九のつほ・ちかわたせ・まち口・屋しきなど合わせて3町9反4丈が富来氏の被官と思われる姫島河内守の給分に充てられたが,これらは「畠中名」に属し,平次郎,次郎太郎らが作職を保有していた。ところで稲数村は御井郡と御原郡の双方にあるが,前記坪付状の坪名と現在の字名とを対比すれば,「九ノ坪」が御井郡の稲数(北野町稲数)に,「町口」が御原郡の稲数に近い本郷町(大刀洗町本郷)にある。また「大ふ」は五条良邦の河北荘坪付(五条家文書/史料纂集)に「三原郡 おうふ名」とあり,「畠中」も同じく五条鎮定の永禄6年の坪付状(同前)によって,やはり御原郡内であることがわかる。これらの点から,稲数は元来御原郡と御井郡に散在する大名田であったと思われ,これが分解して大ふ名や畠中名などの新名を派生する一方,両稲数村を成立させたものと見られる。なお,天正15年以後の稲数は麻生氏の知行地となったが,文禄4年12月1日の麻生氏知行方目録(麻生文書/九州史料叢書)には「千弐拾九石九斗弐升 前いなかす村」とあり,この石高は近世久留米藩における両稲数村の合計石高799石余(天保郷帳)に比べてはるかに高い。従って麻生氏知行の稲数村は両稲数であったと思われる。なお高良社八人神官の1つに稲員(いなかず)氏があり,中世末期には筑後上妻郡広川荘の古賀村を領したが,「稲員家記」(筑後国史)によれば同氏は草壁姓で,9代草壁保只が延暦21年御井郡稲員村に移って稲員氏を称したという。現在の北野町稲数・大刀洗町栄田のうちの稲数は当地の遺称地と考えられる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7607108