100辞書・辞典一括検索

JLogos

10

高田炭鉱
【たかだたんこう】


粕屋郡の篠栗(ささぐり)町と久山町にまたがってあった炭鉱。明治16年4月「福岡県,福岡監獄署より粕屋郡津波黒村炭坑出役の為津波黒出役所を設置,獄舎は傭主が建築」と記録され,さらに翌年5月「囚徒増員してますます盛大」と報じられたように,この頃囚人労働を用いて盛んに採炭を行っていた模様である。経営主体については,「明治鉱業社史」は明治初年の頃には地域の村人たちが共同で採掘していたとし,「鉱山借区一覧表」に高橋伊三郎ほか4名が,同16年津波黒村で採炭した記録があるが詳細は不明。同19年,海軍省が軍用炭採掘中の唐津炭山の代替を物色,これに関連して県が高田村・津波黒村・篠栗村,その他の借区出願を差し止めた。結局同21年1月粕屋郡の18か村が鞍手・嘉麻・田川各郡の計20か村とともに海軍予備炭山に指定されたが,翌22年解除され,「小借区に分けられ,村民組合または有志の共同で小規模に採掘されていた」(明治鉱業社史)。同22年8月,高田炭鉱(篠栗村)開坑,資本金5,000円,職工15人,蒸気機関3台,44馬力,同23年6月,津波黒炭鉱(粕屋郡勢門村)開坑,資本金830円,職工2人という記事が「県統計書」に見えるが,これらは小規模炭鉱であろう。同30年(明治鉱業社史では同25年),許斐鷹介が津波黒を中心とする数鉱区を合併して買収,同31年斜坑を開削して津波黒炭鉱と称した。その後同36年1月,貝島太助が譲り受け,翌37年隣接鉱区を買収して93万8,115坪とした。同38年5月,字尾仲の万浄寺に竪坑を開削,同39年3月には斜坑を開削,同6月には旧津波黒斜坑を廃坑して,竪坑に集中した。同38年の出炭が鉱夫188人で1万9,645t(本邦鉱業一斑)であったのに対し,同40年に鉱夫914人で8万4,700tに達し,この時期の発展ぶりを示している(日本炭礦誌)。津波黒炭鉱は同41年,橋本半次郎の所有となり,高田炭鉱と改称された。その後坑口が増設されたが,大正元年11月,第3坑で坑内出水があり経営不能となって廃止された。同6年8月8日,明治鉱業が橋本から買収,稼行中の第1坑および上河原坑を引き継いで操業したほか,開坑準備中の第2坑(北坑)も翌年から掘進作業を開始した。また同8年7月には第2坑(南坑)を開坑したが,同10年5月休止した。大正9年6月29日,第1坑掘進箇所の古洞から出水し,行方不明者21名(うち女子8名)を出した。直ちに排水作業に着手し,これと平行して7月20日には上部で一部採炭を開始したが,全遺体を収容し終えたのは1年後の同10年8月初旬であった。第1坑はその後不況の影響もあって昭和2年3月休止し,続いて上河原坑も同年11月休止した。代わって同7年2月,第3坑を開坑したが,これに先立つ大正13年3月,隣接する久原炭鉱(久原町)を佐藤慶太郎から25万円で買収した。久原鉱区は高田鉱区の一部分の上層部を占め,既に大部分採掘ずみであったが,従業員ぐるみ引き継いで併合し,稼行を続けた。その結果,昭和7年3月末の稼行坑口は高田坑・久原坑・第3坑となった。採炭方法は高田坑で昭和4年6月に,前進式長壁法を採用したほか,昭和2年からオーガードリルを使用,久原坑では火薬の使用を制限してピックハンマーを使用した。また選炭機は大正12年から設置したが,同13年に共益社式水選機を設置し,昭和2年10月にはバウム式水選機を新設した。昭和恐慌ののち,景気回復に伴って同11年4月に高原坑を開坑,続いて,恐慌時に縮小していた久原坑を同年11月再開した。高原坑は同13年5月廃坑とし,同月和田1坑を開坑した。和田1坑は同17年8月に廃坑,残る第2・第3・久原の3坑で戦時増産を続けたが,大正13年以降一貫して20万t台の生産を維持し,昭和11年には25万9,449t,鉱員数1,134人で,1人1か月当たり能率19.1tを記録した。戦後は,同23年3月,若杉坑を開坑する反面,第2坑(北坑)を閉鎖し,全般的に生産は半減した。同32年3月末日現在,273万1,031坪の鉱区に第3・久原・若杉の3坑があって,699人の労働者によって年間約11万tを採炭したが,久原坑は既に石炭鉱業合理化事業団に買上げを申込み,翌33年2月20日契約が確定した。その後同35年までは第3坑のみで,労働者300~400名による6~7万tの生産を続けたが,同35年4月30日閉山し,翌36年9月26日,石炭鉱業合理化事業団への買上げが決定した。大正6年明治鉱業によって買収されて以来の出炭の累計は約653万tに達した。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7607245