100辞書・辞典一括検索

JLogos

9

筑紫部荘
【ちくしべのしょう】


旧国名:筑後

(中世)鎌倉期~室町期に見える荘園名。筑後国上妻郡のうち。文治2年6月27日大宰府守護所は鎌倉殿(源頼朝)の命令によって,上妻家宗をその要求に従い「地久志部」など12箇所の地頭職に任じた(上妻文書/鎌遺119)。さらに建久4年6月19日将軍家政所は地久志部を含む上妻荘内7箇所の地頭が家宗である旨を同荘官らに命じ(同前/同前673),8月17日藤原某はその命令を伝達した(同前/同前681)。建永2年8月28日鎌倉幕府は家宗の本領7箇所のうち地久志部など4箇所を家宗に返付し,他の3箇所については後日指示することを筑後守護大友能直に命じ(同前/同前1696),能直は翌承元2年正月17日この命令を施行した(同前/同前1712)。建暦2年12月13日将軍(源実朝)家政所は北田村と白木山の地頭職をめぐる家宗と資綱・家守との相論を裁決したが,それによると家宗の養父重宗が「筑紫部被庄号」とあり白木山も含まれていたとある(同前/同前1958)。この筑紫部は先の地久志部と同じ地と思われる。重宗は上妻荘地久志部を筑紫部荘として独立させんとしたと解釈されるが,この時は成功しなかったらしく,寛喜2年2月8日の関東下文案(同前/同前3956)には上妻家能に筑紫部など3箇所を元のように領知させるとあり,3月19日筑後国守護所はその旨を施行した(同前/同前3971)。なお,2月8日の文書には筑紫部に割注して「筑紫部則下妻郡溝口村也」とあるが,上妻文書の原本を検するにこの割注ははるか後世の追筆と認められ,にわかに信じがたい。南北朝期には,観応3年2月日書写の安楽寺領注進状案(太宰府天満宮文書/南北朝遺3340)に「雖為当宮根本御領 地頭御家人甲乙輩令押領之」の地の1つとして「上妻郡紫部庄」をあげている。天満宮安楽寺の根本所領であったが,すでに鎌倉期に武士に押領されてしまっているというのである。この紫部荘は筑紫部荘の誤写であろう。応永2年閏7月25日太宰府天満宮の法眼信満・信雄が同宮領筑後国不輸荘らを注進したなかに半不輸の1つとして筑紫部荘があげられている(同前/大日料7‐2)。しかし,鎌倉期すでに武家に侵略された地であるから,天満宮の支配が実際に及んでいたかどうかについては疑問である。上妻荘は宇佐神宮寺弥勒寺領であったから,宇佐八幡宮と安楽寺それに上妻荘地頭上妻氏の間にかけひきがあって,上妻荘内地久志部が筑紫部荘として独立したものと思われるがその詳細は未詳。白木山を含むと推定できることから,現在の八女(やめ)市南部から立花町白木に及ぶ一帯に比定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7607261