100辞書・辞典一括検索

JLogos

21

平山炭鉱
【ひらやまたんこう】


嘉穂郡桂川(けいせん)町と碓井(うすい)町にまたがってあった炭鉱。「明治鉱業社史」では,平山区域は明治18年に肥前の松尾法幹によって初めて開削されたとあるが,同16年と同19年の「鉱山借区一覧表」には,嘉麻郡下臼井村古賀ノ谷に是松甚九郎が,同18年2月に1万417坪の借区許可を得た以外は,煽石などの零細な借区が1~2あるのみである。「筑豊炭坑誌」では,桂川村土師に豊島住作が持つ11万余坪の借区に,松尾法幹が桂川炭鉱を開いたのが同30年2月とされ,同年3月,城野琢磨が藤田伝三郎から土師の37万余坪を買収し,翌月集丸炭鉱を開いた。同誌によるとこの地域の地表部は煽石が多く,地下を掘り進むと良質の石炭層に逢着したもののようで,本格的な採炭は同30年以降のことと思われる。平山炭鉱の名が初めて登場するのは,同31年1月,飯塚町の松尾法幹が海軍予備炭山(碓井村)の開放地区34万坪を3万5,000円で取得し,平山炭鉱を開坑したとする,「門司新報」の記事である。その後同35年11月に田川郡香春炭鉱の経営者でもあった熊谷良三が平山炭鉱を創業したと「県統計書」に出てくる。「本邦鉱業一斑」では,熊谷の平山炭鉱(35万7,952坪)の同38年の産出量3万3,399t,坑内夫263人・坑外夫149人と記載され,「日本炭礦誌」でも同40年の出炭高5万2,186tとなっている。また「筑豊四郡煤田調査報文」によると,明治36年2月末日現在,熊谷良三は香春炭鉱を含む田川地区とは別に,碓井村平山炭鉱・桂川村集丸炭鉱・熊田村為朝炭鉱など5地域計114万2,799坪の鉱区を保有していた。しかし同40年7月7日,平山炭鉱に坑内火災が起こり,第1坑・第2坑とも密閉して鎮火した。これが原因かどうか,翌41年8月出島信夫へ移譲され,その後も再三経営者が替わった。同42年4月,金田鉱業が金田・平山両鉱の経営に当たったが,炭況不振のため,第3坑と第5坑の採掘を休止した。同44年8月,堀鉱業が休山中の平山炭鉱を金田鉱業から譲り受け,排水工事に着手した。大正2年11月には三菱合資が堀鉱業への15万円の融資によって,同社の御徳・平山などの産炭の大部分の一手販売権を取得した。その後,同3年梅雨による陥落もあったが,同6年には第1~第3坑間の坑外運搬を,馬から機関車に代える近代化が行われた。同6年12月,中島徳松が平山鉱区を買収,翌年5月に中村組との共有とした。こうして同7年,年間出炭高が21万~30万tクラスに入るとともに,翌8年3月,臼井駅積場引込線工事が竣工するなど,近代的生産態勢を整え,同9年12月17日,平山炭鉱を設立した。同15年には水洗機を設置したが,折からの不況によって,同年7月,賃金不払いに伴う争議が起こり,昭和2年には旧平山坑を経営難と豪雨による浸水のため休止し,500人を解雇する事態となった。さらに同5年9月30日,経営難により金丸・土師・末吉の各坑を休坑,10月22日,明治鉱業に権利を譲渡した。明治鉱業は翌6年1月12日,資本金200万円の平山鉱業を設立し,本社を明治鉱業社内に置くとともに,買収当時の坑口の1つを残し,これを第2坑として新たに4月末,第1坑を開坑した。平山鉱業時代は第1坑・第2坑とも三尺五尺累層中の8番層・9番層と,大焼累層中の10番層を採掘し,年間20万t台で徐々に生産を増加し,同10年に第3坑を開坑したが,炭層条件不良のため同12年に中止した。この間昭和9年4月,第1坑でガス爆発が起こり死者12名・重軽傷者7名を出したほか,同12年3月には第2坑でガス爆発があり,死者8名・軽傷者7名を出した。同年5月,明治鉱業は平山鉱業の鉱業権その他を250万円で譲り受け,6月1日直営の平山鉱業所とした。翌13年,新3坑・第4坑・第5坑を次々に開坑,このうち第4坑は炭層不良のため1年で休止し,10番層を採掘する第5坑は戦後の同23年まで稼行した。坑口を増強したことで,生産は昭和13年33万486tに達し,出炭能率も翌14年1人1か月17tを記録した。しかし長年の採掘によって良質の8番層・9番層の炭量が枯渇するとともに,同15年から第2坑で竹谷累層の2番層・3番層,三尺五尺累層の5番層を採掘するようになった。また同18年に鉱区東部に第6坑を開坑して,1~3番層の採掘を行った。第2次大戦末期,隣接する東邦炭鉱の天道炭鉱を,政府の指示と石炭統制会の斡旋で同20年4月買収し,平山鉱業所に編入したが,天道炭鉱は同11年1月,野上辰之助の所有となり,鉱夫1,430人で操業し,その後東邦炭鉱に移ったものである。天道炭鉱は譲り受けた6坑・大谷坑を継続して採掘する一方,同21年4月,天道鉱業所として独立し,同年9月には小型坑を開坑したが,同23年9月これを閉鎖,同27年8月には再び平山鉱業所に編入して天道区域と称した。天道炭鉱では同27年2月,新3坑を開坑し,竹谷累層の1~3番層を採掘する一方,大谷坑は同29年大栄鉱業に譲渡した。平山炭鉱は昭和23年4月に第5坑を閉鎖した後,同27年に10番層採掘のため新2坑を開坑,同28年には第2坑を中止,新3坑を保坑坑とした。また翌29年には第6坑の採掘を終了した。その後同36年5月,平山2坑を第二会社の明豊平山炭鉱として分離,さらに同41年10月,第1坑終掘に伴う竹谷坑移行を労使で協定したが,同43年2月明豊平山,同年3月明治鉱業天道炭鉱が石炭鉱業合理化事業団による閉山交付金を受け,さらに平山炭鉱は同44年5月に新明治鉱業平山炭鉱として第二会社に移管されたが,同47年11月閉山交付金を申請してその歴史を閉じた。天道区域を合わせて185万坪の鉱区を擁した平山炭鉱の,同30年度の出炭は18万9,050tで,同31年9月末の在籍労働者は,職員148人・鉱員1,269人であった。また明治鉱業の経営下に入った昭和6年以降の出炭累計は,おおよそ500万tであった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7607317