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豆田炭鉱
【まめたたんこう】


嘉穂郡の桂川(けいせん)町と筑穂町にまたがってあった炭鉱。明治6~7年頃,秋穂某ほか1名が桂川村豆田字上川原で小規模な採炭を行ったと伝えられ,これが豆田八尺炭を発見した最初とされる(日本炭礦誌)。その後同21年,永富・大熊・佐谷の3名が豆田区民と契約し,その翌年麻生太吉と共同で,上穂波村平塚と桂川村豆田,寿命にまたがる35万6,160坪の借区を出願し,許可された。しかし炭界の不況などもあって開坑は遅れ,同32年,麻生のみの所有となって,捲揚および排水などの蒸気機関を準備し,同34年5月,豆田炭鉱(第1坑)を開坑した。次いで周辺の鉱区を次々に合併し,同37年までに91万2,550坪に拡げ,翌38年5月第2坑を開坑,さらに同40年4月,1万5,000余坪を増区して,同年12月に第3坑を開坑した。「本邦鉱業一斑」によると,同鉱の産出炭は明治36年の6万741tから同38年9万9,378tに増加し,この間の躍進ぶりを示している。さらに「日本炭礦誌」などによると,同41年6月末の坑内外鉱夫数は1,105人であり,同42年の出炭は14万tに達した。稼行炭層は第1坑が下五尺炭と下八尺炭,第2坑が上五尺炭と下八尺炭,第3坑が新八尺炭であった。同43年第4坑および新坑,翌44年第5坑,大正10年第6坑と次々に開坑,その後も同13年鶴田坑,同15年新五尺坑,昭和3年出雲坑,同4年第7坑,同5年新五尺補助坑,同6年坂本坑,同7年鶴田2坑,同8年第8坑と,ほとんど毎年のように新坑口を開設した。これはこの炭鉱が比較的浅い炭層を斜坑方式によって採掘したためで,特に鶴田坑以後は規模も小さく鉱命も短かい坑口が多く,極端な場合は1坑口からの総出炭量が1,000tという例もあった。従って機械化・近代化も,昭和4年10月に石炭削孔用として昭和式半馬力コールドリル1台を増設,切羽運搬用として金樋40間を片磐払いに使用開始(本邦鉱業の趨勢)といった記録がある程度である。産出炭は「麻生百年史」によると,すべて鉄道用として搬出されていた。同7年7月,不況と撫順炭問題にからんで,上三緒炭鉱とともに事業を縮小する事態が生じたが,その後の炭況の好転と,相次ぐ終掘に対する代替坑の開削の必要から,新坑の開発が続けられた。すなわち明治45年に終掘した新坑および第2坑は別としても,昭和4年鶴田坑,同5年新五尺坑と同補助坑,同8年鶴田2坑,同9年第7坑と終掘が続いた反面,同11年土居坑,同12年明寺原2坑・土居七浦坑・土居2坑,同13年大谷坑,同15年蕃手新坑,同16年胴乱坑・堅木坑,同20年新6坑が開坑された。折しも戦時増産態勢が進められる中で,昭和12年度には19万1,625tの生産を上げた。しかし同15年,第4坑が断層に逢着して閉鎖したほか,それまでに出雲坑・第8坑・明寺原2坑・土居2坑・土居七浦坑・第6坑・坂本坑・土居坑がいずれも終掘し,生産は同17年に10万tを割るまでに減少した。第2次大戦終了時に稼働していたのは,豆田本坑と大谷坑・堅木坑および新6坑であったが,大谷・堅木両坑はこの年末に終掘し,新6坑は同22年採掘に至らず開削を中止した。明治38年の開坑以来40余年間,この炭鉱の中軸として152万5,000tを産出した豆田本坑も,昭和23年2月終掘し,豆田炭鉱はその歴史を閉じた。この炭鉱で明治・大正・昭和を通じて生産された石炭の総量はおよそ438万tであった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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