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吉田荘
【よしだのしょう】


旧国名:豊前

(中世)鎌倉期~戦国期に見える荘園名。豊前国京都(みやこ)郡のうち。御所ケ岳・馬ケ岳連山の北山麓から長狭(ながお)川の中流域に広がる。下稗田の大分八幡神社に伝わる「大分社略伝記」では,下稗田・前田・上稗田・上田・下久保・平尾・津積・西谷・大谷を吉田荘とする。このうち長狭川北岸の稗田近辺には稗田荘も所在した。近衛家領。建長5年の近衛家所領目録(近衛文書/鎌遺7631)に,荘務本所進退の所領として見える。もと高陽院領で藤原顕氏の奉行。元応2年藤原氏の氏寺興福寺の教円が豊前吉田荘で論語集解を書写した(蓬左文庫保管論語集解奥書)のもこの関係からであろう。地頭職は,いつのころからか北条氏一門の領するところとなったと思われ,観応2年鎮西管領一色道猷は北条家時跡地頭職を宇都宮(佐田)公景に与えている(佐田文書/大日料6‐14)。また,文明2年に保弘有が吉田荘領家内14町1反45代を嫡子長王丸に譲渡しており(萩藩閥閲録45‐2),はやく吉田荘では下地中分が実施されていたものと思われる。応仁・文明の大乱の際,豊前守護大内政弘が西軍として上京している間に,東軍に呼応する大友親繁や少弐政資が豊前に手をのばした。文明6年大友氏より佐田河内守が吉田荘内70町を「御本給」として安堵されているが,この時期佐田氏嫡流の忠景が大内氏に従っていたことと関わりがあろう(佐田秀穂文書/大分県史料8)。その後,再び大内氏による吉田荘内の知行宛行が行われ,梅月弥五郎跡野原分8町7反45代が恵良盛綱に(天文6年),提村(津積か)20石地が末武直氏に(天文9年忠氏に譲与),天文17年には大神秀盛(恵良氏か)に5町6反35代が与えられた。天文22年には松本志摩守に給せられていた吉田荘の大分宮領内保恩寺々領5反・供僧免田2反半を秀盛の知行とし,住僧の任免権を付与している(萩藩閥閲録82,恵良文書/大分県史料8)。弘治4年右田隆俊は内藤氏に押領されて不知行となっている久保・吉田荘の70石足を毛利氏に注進したが,これは陶晴賢が大内氏を滅した時以来のものであろう(防長寺社証文22)。永禄8年豊前北部の三ケ岳に進出した大友氏の軍勢のもとで,田原親宏は吉田荘内の地を被官厚東氏に与えたが(後藤文書/大分県史料10),大友氏の後退に伴い不知行となった可能性が高い。なお,建久の「豊前国図田帳写」に「吉田得光三十丁〈起請田七丁五反〉」とあるが(到津文書/鎌遺926),この吉田は企救(きく)郡吉田保のことであろう。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7607381