100辞書・辞典一括検索

JLogos

12

杵島炭坑
【きしまたんこう】


杵島郡北方(きたがた)町と大町町にまたがってあった炭坑。明治33年東松浦郡相知(おうち)町和田山にあった相知炭坑を三菱鉱業に渡した高取伊好は杵島炭坑の開発に乗り出し,同35年から同42年にかけて福母(ふくも)・赤坂口・北方・市村・十三塚の炭坑を買収統合し,北方を杵島第1坑,市村十三塚を第2坑として石炭経営に着手したことに始まる。北方は天保8年多久邑営坑業の炭坑として発足した歴史を持つが,第2坑のうち十三塚は明治17年,市村は明治19年に開坑し,明治34年三井鉱山が買収したが,2年後には田島信夫に譲った炭坑であった。明治43年には13万t,大正5年には50万t,大正8年には従業員数5,663人で69万9,000t(県内出炭の31%)に達し,三菱鉱業(県内出炭の50%)に次いで多くの出炭を行った。その後の石炭不況の時代にも年間50万t前後の出炭を行い,昭和4年には三菱鉱業相知炭坑にかわって県内最大の炭坑となった。この間,大正7年には高取鉱業株式会社を設立した。昭和4年8月第1・2坑の終掘に伴って大正15年から委託経営を行っていた大町の佐賀炭坑(明治22年開坑)を買収して第3坑とし,社名を杵島炭坑株式会社と改称し,大町に本拠地を移し,第4坑を開坑した。昭和7年には切羽運搬を機械化して生産力も上昇した。ちなみに昭和12年には76万t(県下全体で110万t),戦時中の増産体制下では66万t(県下全体で181万t)を出炭し,昭和18年には第5坑を開坑した。戦後は出炭も減少したが,昭和23年4月から施行された炭鉱管理法によって指定炭坑となり増産体制を整え,同25年には従業員6,923人で57万2,000tを出炭した。しかし同27年になって,世界的な不況で石炭界にも生産の合理化が進められることになった。杵島炭坑では昭和29年10月730人の人員整理の合理化を計画したが,組合の激しい反対にあい失敗した。翌年9月には「50時間残業認定」が結ばれ,大手並みの高賃金と大手を下回る低能率のため赤字は増加した。そのため,会社では昭和32年7月30日月産5万4,000t出炭体制を骨子とする協定を施行しようとしたが,組合は8月2日から97日間のストを行った。県労働委員会の職権斡旋案で解決したが,このストによる損失は会社10億円・組合5億円といわれ再建が危まれた。昭和33年3月には総株数400万株のうち201万株を住友系企業に対する石炭の安定的供給を求めていた住友石炭鉱業に売却して経営権を譲った。同36年6月には再び合理化をめぐって136日間の長期ストが行われたが,900人の希望退職者募集,北方坑の第二会社化,請負の導入等の合理化が実施された。その後,昭和40年8月,同42年8月と再建計画の承認を得て再建に努力した杵島炭坑もついに昭和44年5月28日付で解散した。昭和24年全国654坑をA・B・Cの3級に分類し優良鉱の育成をはかった折,佐賀県内でのA級6鉱の1つであった杵島炭坑も60年の歴史を閉じた。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7607444