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西海橋
【さいかいばし】


西彼杵(にしそのぎ)半島と針尾島の間にある針尾瀬戸に架かる橋。佐世保市と西彼杵郡西彼(せいひ)町を結ぶ。国道202号が通過する。橋長316.3m,主径間は上路式構助鋼固定アーチで244.0m,側径間は鉄骨コンクリート2径間ラーメン桁で72.3m,海面からの高さ43.3m。工費5億5,197万円余,6年がかりの大工事で,延べ人員5万人。1人の犠牲者もなく,昭和30年10月,東洋一の大アーチ橋が完成。同年12月1日から有料橋として営業開始,15年後の昭和45年2月28日深夜11時から無料となった。架橋計画は昭和11年からあったが,第2次大戦の拡大により中断。同25年度対日援助見返り資金で,総工費2億4,400万円,3か年継続の国直轄事業として実施されることが決定し,同年11月23日に起工式が行われたが工事は中断。同27年6月,道路整備特別措置法による15年償還の有料橋に指定され,工事が再開された。針尾瀬戸は潮流が速く,海中に橋脚を立てることは不可能で,戦前は釣橋が計画された。付近の地質は第三紀層(主として砂岩と頁岩の互層)と,これを覆う安山岩質礫岩層を貫いて玄武岩質安山岩溶岩が噴出したもので,架設地点はその中心に近く,両岸とも同質一連と推定される溶岩で,橋の土台には好適であった。建設省土木研究所で3分の1実大圧縮実験(長さ)と11分の1(断面)の実験を行い,土台から中央に向けてアーチを延ばしていく突桁式吊出架設法がとられた。主径間のアーチは互換性があるよう4組の半アーチに分けて作られた。最初から仕上り径とし,仮組も4組のうち1個でしか行われなかったが,温度補正後の誤差が113.494mに対し8.3mm長いだけという精巧さであった。昭和29年8月,約1,800tの鋼材が100両余の貨車で1か月かけて輸送されてきた。組立ては,夏の台風と冬の強い北西風の季節を避け8月中旬~11月中旬が選ばれたが,実際には架橋施設の調整などで1か月半遅れた9月24日に開始。アーチ鋼材は地上で8個の部分に組み立てられ,両岸に立てられた高さ31mの鉄塔を支柱とし,直径5cmの無数のワイヤーを使ってつり上げ,橋台根元に最初の1個が取り付けられた。その先端に次の1個が取り付けられ,さらにその先に次の1個を取り付けるという方法で,両岸から4個ずつ並行して取り付け作業が行われた。こうして同年12月18日クラウンまで組み立てられ,それからアーチ閉合作業に入り,翌30年1月7日,下弦クラウンの圧力添加をもってアーチ架設は完了。「アーチの閉合に当たっては300瓩ジャッキ8台を駆使して予応力を添加し,アーチの応力分布を調整改良する世界初の試みを提案実施した……敗戦後間もない日本に於て日本人のみの技術によりかかる橋梁を完成せしめた現実を誇りとしたい」(西海橋概要説明書)。その後床組の架設が同年3月中旬,床版舗装が8月末,高欄・現場塗装が9月末に終了し,橋は完成。橋名は全国から懸賞募集し,3万3,000通の中から「西海橋」に決定。昭和30年10月18日の竣工式には,万余の地元民が集まり,原爆と敗戦から10年目の快挙を祝った。架橋以前,江戸期の針尾島が平戸藩,西彼が大村藩に属していたこともあって往来は少なかったが,佐世保市の発展に伴い,西彼の農産物が佐世保へ運ばれるようになった。いくつもの定期航路ができ,船が産物を預って佐世保で販売し,売上の1割の手数料をもらうという慣習もできていた。また,西彼~早岐間の航路は早岐駅から鉄道に乗るためには好適であったが,架橋により定期航路は次々と廃業,産物はトラック輸送に代わっていった。道路も県道から国道に昇格。佐世保~長崎間は大村経由にくらべて15km短くなったが,曲がりくねり,舗装も悪かった。昭和36年5月早岐から西海橋まで防塵舗装,同40年早岐~西海橋間,同42年に西海橋~長崎間の舗装が完了。このため西海橋の交通量は増加し,昭和31年には1日408台,同43年3,426台,同46年6,269台,同60年7月9,643台となっている。




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「角川日本地名大辞典」
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