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桑西郷
【くわのさいごう】


旧国名:大隅

(中世)平安末期~室町期に見える郷名。大隅国のうち。天降(あもり)川右岸域に位置する。地名の由来は「和名抄」桑原郡の桑善郷に由来するか,あるいは桑原郷なるものが本来存在し,それを分割したものか,あるいは桑原郡が平安中期に解体して院などを分出した後に,本郡部分を東西に分割したものかなど推論できるが,詳細は不明。初見は治暦5年正月29日の藤原頼光所領配分帳案に桑東郷とともに「桑西郷所領田畠者 在坪付抄帳」とあるもの(禰寝文書)。建久8年の大隅国図田帳によれば,当郷の田数は156町2反60歩,うち大隅正八幡宮領が143町6反大で,その大部分を占めていた。八幡宮領の地頭は中原親能であり,郷の郡司は則貞なるものであった。建治2年の大隅国在庁石築地役配符には「辺也加利二反 西郷郡司則継」と見えるが(旧記雑録),則継は則質の子孫と思われる。下って,「島津国史」暦応元年条に「足利尊氏,賜三郎左衛門尉頼久 大隅桑郷東西」とあり,建武5年正月27日の足利尊氏下文案で島津三郎左衛門尉すなわち川上頼久に桑郷東西が与えられている(島津家文書/大日古)。桑郷東西は桑東郷・桑西郷のことである。延文5年2月18日には惣領の島津氏久が郷内の鏡原3反を兵糧所として目弥四郎入道に与えている。(国分宮内社文書/旧記雑録)。また,応永16年12月5日の島津久豊寄進状によれば,郷内の村下8町が正八幡に寄進されており,南北朝期~室町期には島津氏の直轄領化していたと思われる。郷域については,郷内の地名として,天養2年3月12日の前大隅掾建部頼清処分状の「桑西郷内 横川院 背尾村」,建久図田帳の溝部 在河 小浜村,建治2年の大隅国在庁石築地役配符の内村・内山田・小浜・山之路・新講・野口村・咲隈寺・朝日寺・加礼河(かれいがわ)・溝部・在河・皆尾・竹師(たかし)・鹿児島社・大穴持(おおあなむち)・新田,永享3年3月の大隅国留守所下文の有河・小浜・皆尾などが現在の地名に比定できる。これらから推定すると,近世の西国分郷と溝辺郷すなわち現在の隼人町隼人と溝辺町が桑西郷の境域であったと考えられる。大字単位では,隼人町の小浜・野久見田(のくみだ)・浜之市・真孝・見次(みつぎ)・内山田・内・朝日・嘉例川,溝辺町の麓・有川・三縄・竹子(たかぜ),国分市の野口などが桑西郷の境域に含まれる。このほか市成(輝北(きほく)町)・山之路(国分市台明寺)などが桑西郷に所属すると記載されているが,市成は小河院,山之路は曽於(そお)郡の境域に入ると考えられ,誤記もしくは桑西郷の飛地と考えねばならない。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7608216