和徳組(近世)

江戸期の弘前藩の組名貞享4年の総検地後,遺に代わって新たに設置された行政区域25組の1つ津軽郡平賀庄のうち津軽平野の南部,岩木川の上流右岸に位置する和徳遺の一部から成立したとみられる貞享4年検知の水帳数覚によれば,組内の村は湯口・黒滝・和徳・高崎・堅田・撫牛子【ないじようし】・大久保・津軽野・向外瀬【むかいとのせ】・悪戸・小沢【こざわ】・坂本・原ケ平【はらがたい】・清野袋【せいのふくろ】の14か村であった元禄3年には,本村14か村・枝村3か村の計17か村で,代官は対馬武右衛門と成田仁左衛門(平山日記)代官所は富田村に置かれ,宝暦~明和年間頃の新村12・寄郷6,庄屋12・五人組33,手代2(弘前市史)明和元年の藩津によれば,組内の村数18,戸数570・人口4,100余とある寛政改革の藩士土着政策によって,組内18か村のうち14か村に在宅藩士が居住した(御家中在宅之族村寄)寛政8年の津軽郡諸組民力消耗表(県租税誌)に,組内の面積は田方703町2反・畑方271町4反,貢米7,721俵,給地高2,547俵,高懸畑銀納7貫851匁,人口3,099・戸数539,牛7,馬672とある明治2年の諸組村寄帳(弘前図書館郷土資料目録7)には,所属村として和徳村・常盤坂村・高崎村・堅田村・大久保村・撫牛子村・津賀野村・百田村・清野袋村・悪戸村・向外瀬村・黒滝村・湯口村・下湯口村・小沢村・坂本村・富田村・原ケ平村が見え,ほかに枝村として清野袋村に二ツ屋,悪戸村に下悪戸・野木屋・扇田,坂本村に野木,原ケ平村に狼ノ森【おいのもり】があげられている明治6年の大区小区制への移行に際して,組内の村は青森県第3大区2小区に編入された現弘前市と中津軽郡相馬村の一部に比定される

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7615040 |