石屋保(中世)

鎌倉期に見える保名。津名郡のうち。貞応2年の淡路国大田文に津名郡の国領として「石屋保田六丁七反百四十歩」とある。田地の内訳は除田3町9反・残田2町8反余,ほかに畠5町余・石屋宮1所・浦1所があった。石屋宮は延喜式内社石屋神社のこと。淡路守護佐々木経高が地頭職をもっていたが,承久の乱後は新守護長沼宗政に与えられた。「南海流浪記」(群書18)によると,仁治4年2月,四国に配流される高野山正智院の僧道範阿闍梨は筒井を経て「石屋」に渡り,「石屋并絵島」を巡見,翌日船で滝ノ口(炬口)に向かっている。道範は当地の「青巌之形,緑松之躰,碧潭之色,晩嵐之声」に感興を覚えている。文安2年の「兵庫北関入船納帳」によれば3月25日条に「岩屋 米十三石〈淡路斗〉」とあるのをはじめ,当地の船が米・大麦・塩・薪を積んでたびたび兵庫津に入港している。当地は水運交通の点から淡路の要港であると同時に,明石海峡に面し大阪湾と瀬戸内海を扼する軍事上の要地でもあった。はやく,天正3年,織田信長はかねて衝突していた摂津石山本願寺への航路を封鎖するため,「淡州岩屋」に対し種々の計略を巡したという(吉川家文書11月28日付真木島昭光奉書/大日古)。翌年4月,信長は摂津に派兵したが,6月には安芸の毛利氏が本願寺援助のため警固船(武装船)約100艘を当地に進駐させて,石山に食糧を輸送した(佐藤行信氏所蔵文書/織田信長文書の研究下)。毛利方は同5年には豊島・長屋両氏を当地に籠らせ,ついで同6年2月には水軍の将児玉就英を在番させて防備に努めている。同年11月,織田方の鉄甲船の活動で毛利水軍は大敗を喫し,当地から撤退したらしい。同7年5月には信長に叛した伊丹城主荒木村重が岩屋への派兵を小早川隆景に申し入れている(萩藩閥閲録巻39・100・123)。同8年9月23日付羽柴秀吉判物(淡路草)によれば秀吉は「岩屋船人共」に播磨飾万津における商売を免許,同9年10月23日付判物(佐伯文書/織田信長文書の研究下)では「淡州岩屋船五十七艘」に対し秀吉分国沿岸の往来を認めるなどして,当地を掌握した。同9年,淡路を平定した秀吉は同11年に間島兵衛尉を当地に置いている(柴田退治記/群書21)。毛利軍などが駐在した岩屋城(松尾城)跡は現在の淡路町岩屋の北方,松尾山上にある(城郭大系)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7617116 |