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椋橋西荘(古代~中世)


平安期~鎌倉期に見える荘園名摂津国河辺郡のうち倉橋とも書く摂関家領椋橋荘の西半分現在の尼崎市戸ノ内町を中心とする地域で,一部は伊丹【いたみ】市にわたる江戸期の「五畿内志」によると椎堂・穴太【あのう】・富田【とうだ】・法界寺・戸ノ内・高畑・額田・善法寺の8か村を西椋橋荘とする「宇治関白高野山御参詣記」永承3年10月11日条(続々群5)に「以椋橋御庄卅人,摂津大江御厨夫卅人 分給水手等」とあるのが椋橋荘の初見であるが,「台記別記」仁平3年8月8日条などには椋橋東荘(現大阪府豊中市)が見られ,この頃までには荘の中心を流れる猪名川で東西に分かれたものであろう尼崎市戸ノ内町と豊中市庄本町とに架けられた橋を地元では椋橋と呼んでいる応保2年11月18日付椋橋西荘司等陳状案によれば「件東大寺領田者,橘御園并椋橋之西御庄四至之内入交田地也」とある当荘下司僧定俊・田所橘季隆らの訴えでは,もともと猪名荘・橘御園・椋橋西荘の田地は入り交じっていて一円のものでなかったが,猪名荘下司頼兼が昔になかった堤を限る絵図を作り,橘御園や椋橋荘に属する役田までも猪名荘内におし入れてしまったという(東大寺文書/平遺3233)当時の椋橋西荘は神崎川右岸の神崎や浜崎あたりまで含んでいたらしい次いで,鎌倉期の建久8年10月5日付関白藤原基通春日詣雑事定文では「褁千果……椋橋東庄三百果・同西庄五百果」と,饗料の負担が定められている(猪隈関白記/鎌遺936)建長5年10月21日付近衛家所領目録によると当荘は高陽院(鳥羽天皇皇后藤原泰子)領から近衛家に相伝され,建久5年頃には春日局の請所となって年貢を近衛家に納入しているが,以後の伝領関係は明確でない(近衛家文書/鎌遺7631)室町~戦国期には椋橋付近は軍事上の要衝であったため,しばしば合戦の場となり,城郭が設けられた史料に散見する椋橋城は当荘に属する現在の尼崎市戸ノ内町の治田寺が城として利用されたもので,江戸期の「摂陽群談」にも「椋橋古城 同(川辺)郡椋橋の庄戸の内村,治田寺境内にあり池田勝入在城なり」とある文明2年7月椋橋城には東軍の細川勝元の家臣薬師寺与一が入り,西軍の攻撃を被官の夜久主計允とともに防ぎ勝元から感状を得ている(夜久文書/大日料8‐3)天文3年8月になると,「三好伊賀守・同久助・本願寺一味して御屋形晴元へ御敵として椋橋城へ取入楯籠に,晴元方伊丹衆取出北中島と云処にて合戦あり」と(細川両家記/群書20),三好伊賀守が当城に拠って細川晴元側の伊丹氏と合戦しこれを破ったが,同5年3月には「椋橋城ニ伊賀守籠リケルカ人衆大方西難波ニテ打レケレ,ハカナク落テ木沢左京亮ヲ頼ミテ信貴ノ城エ落行ケル」と(足利季世記/集覧13),同城から退去している下って天正6年11月織田信長軍による伊丹有岡城にこもる荒木村重攻撃でも,信長は「倉橋の城」を池田庄三郎父子に守備させている(陰徳太平記/高槻市史3)




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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