矢野荘(中世)

平安末期~戦国期に見える荘園名。赤穂郡のうち。荘域はほぼ現在の相生市域にあたる。はじめ久富保といい,延久3年6月25日播磨大掾秦為辰が,先祖相伝の久富保に対する掾分王の押妨を郡司に訴えた(東寺百合文書/平遺1059)。次いで,承保2年為辰は旧溝を修理して大規模な開発を行うなど(同前/平遺1109・1113),同人は開発領主の一典型といわれた。しかし,上記の文書を含む開発相承文書案は,鎌倉後期に為辰の子孫と称する寺田範長によって偽作された可能性が高い。保延2年2月11日久富保の検注・立券を命じた鳥羽院庁牒案(白河本東寺古文書/平遺2339)が久富保の確実な初見とされる。同文書によれば,久富保ははじめ藤原顕季の家領で,長子長実・女房二条殿を経て,長実の娘美福門院に伝領した。顕季は,嘉保元年~康和3年に播磨守であった。同3年10月23日の播磨国矢野荘立券案(白河本東寺古文書/平遺2378)で当荘が立荘,田畠163町2反20代,別に未開発の「野三所〈雨打野〉那波野 佐方野〈加筋(莇)野〉」とある。仁安2年12月,左馬允菅原某が,「別名方」種友名田43町1反30代の所当米などを歓喜光院に納めることとし,荘内は別名とその他の例名に分かれた(同前/同前3444)。正安2年7月25日別名が亀山上皇から南禅寺に寄進された(南禅寺文書上)。例名のうち那波野・佐方野の開発が進み,貞応2年には検注が行われ,那波浦・佐方浦となり,のち別納(別相伝地)と呼ばれ,例名から別納を除いた部分は惣荘と呼ばれた。例名は,八条院領のうち歓喜光院領として伝領されたが,正和2年12月7日後宇多上皇から東寺に寄進された(東寺文書/鎌遺25066)。当初は別納と公文寺田氏が特別の支配権をもっていた重藤名が除かれていたが,文保元年3月18日の院宣によって東寺に寄進された(白河本東寺古文書/鎌遺26115)。荘官のうち預所職は,はじめ美福門院乳母伯耆局がもち,のちその孫の藤原隆信に譲られ,以後子孫相伝し,鎌倉末期の冬綱に至り,寺田氏や東寺と争って敗れ,預所職は藤原氏の手を離れた。下司は,前出の保延3年播磨国矢野荘立券案に「下司散位惟宗朝臣」とあり,当初は惟宗氏であったが,承久の乱で失脚したと思われ,以後の活動はみられない。代わって例名地頭として,長治元年相模国に本貫地をもつ海老名氏の家季が当地に移住したと伝えるが(京都大学文学部蔵海老名系図),承久の乱以後に例名の新補地頭として補任されたものと思われ,次いで浦分の地頭職も獲得した。なお,同氏は下司職を兼ねたと思われる。別名下司職は,はじめ矢野盛重,上有智蔵人頼保を経て,弘安2年海老名氏に譲られ,同氏が相伝。例名公文職は,鎌倉期は秦為辰の子孫とする寺田氏で,その出自は明らかではないが,重代開発私領としての重藤名と同地頭職,福井荘・坂越荘の一部の地頭職,大僻宮別当・神主・祝師職のほか,備前国・摂津国にも所領をもち,当荘を本貫地とする御家人であった。鎌倉中期,領家・預所と地頭海老名氏との間で例名をめぐる争いが激化,数度の訴訟を経て,永仁5年7月13日和与が行われ(白河本東寺古文書/鎌遺19415),下地中分が実施された。同6年から翌年の正安元年にかけて検注が行われ,実検取帳が作成された。同年11月5日の矢野荘例名実検取帳案(東寺百合文書)には,約1,650の土地と総面積213町歩が記載される。中分は浦分を除き,矢野川流域をほぼ東西に分割,東方が地頭分で,同2年12月14日の矢野荘例名東方地頭分下地中分分帳案(同前)によれば,総面積112町5反30代。下地中分ののち,公文寺田法念は預所藤原冬綱を追い落として重藤名を拡大し,勢力を増大化することを目指した。法念は,正和2年例名が東寺に寄進されたのを好機として近隣の武士たちと別名に打入り,「都鄙名誉の悪党」となった。しかし,文保元年には別納・重藤名も東寺に寄進され,東寺内の供僧方・学衆方の体制整備も進み,東寺は新任の預所を中心に法念との対決姿勢を強め,同2年10月法念は公文職を解任された。元応元年7月供僧・学衆は,所務・損亡・寺田配分などについて矢野荘支配の基本原則に関する置文を定めたが(東寺百合文書/鎌遺27106),その後も藤原冬綱や寺田氏の反抗があった。寺田氏の没落後東寺は,建武2年・貞和元年に内検・実検を実施したが,東寺内部での所務職をめぐる争いが続き,観応2年には供僧方・学衆方で下地が分割された。同年の東寺御領播磨国矢野庄例名西御方和帳事(東寺百合文書/大日料6‐15)によれば,供僧方29町3反15代・学衆方31町1反35代18歩。この頃から,寺田氏から重藤名などを譲られた飽間光泰による同名などへの押妨が繰り返されたが,延文4年学衆方代官,応安元年公文職となった祐尊が事態を終結させ,東寺供僧方・学衆方による支配が軌道に乗った。永和2年祐尊が供僧学衆西方年貢并員数目録(東寺百合文書)を作成,年貢米227石余・夏麦22石余・大豆16石余・粟5石余・蕎麦5石余・北山地子1貫500文・生栗3石余・搗栗3石余・麻苧20目と定め,以後の基準とした。同3年農民が逃散,翌年祐尊は解任された。これを最初の惣荘一揆と,以後農民らは年貢減免要求など度々一揆を構え,永享元年当荘は播磨土一揆の中心地となった。しかし,守護役の賦課などから次第に年貢・公事銭の未進が増加し,東寺は武家代官を起用するようになる。大永7年正月26日,年貢120文が収納されたのが現存する史料では当荘からの最後の収納である(教王護国寺文書9)。なお浦方については,応永末年で東寺の支配は終わったと思われる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7617200 |