有馬(中世)

南北朝期から見える地名。高来郡のうち。貞和元年12月27日の足利直義下文案によれば,足利直義は知行を証する文書を紛失した開田遠員のために実否の尋問ののち,有家【ありえ】・有馬両村地頭兼預所職以下の所領・所職を安堵せしめている(内閣文庫所蔵古文書集廿三所収/南北朝遺2171)。同文書によると,開田氏による有馬村地頭兼預所職の領掌はかなり以前から始まっていたようである。以後戦国期まで有馬は史料上に姿を現さない。戦国期には,戦国大名有馬氏の本拠地として地名が見え,蜷川親俊の日記「親俊日記」天文11年9月4日条に「渕田新介肥前国有馬へ罷下」とある(続史料大成)。有馬氏は鎌倉期・南北朝期には一在地土豪にすぎなかったが,文明・明応年間に有馬貴純が島原半島の諸豪族を支配下に置いて戦国大名としての地位を確立,その孫晴純の時代が全盛期で,天文8年当時肥前国守護職を帯し(大館常興日記)一時はほとんど現在の長崎県下全域に覇をとなえた。しかし,晴純の孫晴信の時代には,全肥前の平定を目指す竜造寺氏の攻撃に苦しめられ,竜造寺隆信によって滅亡寸前にまで追いこまれた晴信は,竜造寺氏の肥後進出を恐れる島津氏に援助を求めた。島津家の重臣上井覚兼の「上井覚兼日記」によれば,島津側は天正10年11月以降,有馬の情勢を調査し方策を検討している(古記録)。同年11月20日,島津側は有馬へ援軍を派遣したが,この段階では肥後経略が島津氏の主眼であったため,援軍に対し,島津義弘は同25日に城攻め以外の用兵を禁じている。同29日,隆信が有馬へ帰陣した。同年12月2日,義弘は有馬在陣の島津勢に速やかに戦果を収めて隈本へ帰還するよう命じ,島津勢は千々石【ちぢわ】において竜造寺軍に勝利し帰還した。晴信は弟新八郎を人質として島津家久のもとへ送り,同13日には自身も八代へ赴いて島津側との関係を深めている。同18日,晴信の帰国に際し,家久が同道して有馬に赴援しようと言い出したが,重臣らが反対し,鹿児島の島津義久の意向を尋ねてからということで晴信は先に帰国した。結局家久は有馬へ渡海せず,同26日に有馬番衆が定められた。翌天正11年3月23日,竜造寺氏侵攻の情報を得た晴信は,義久に手火矢衆の派遣を請うている。同年5月6日,有馬への援軍が深江・安徳両城を陥れた。しかし,深江城主安富純泰の裏切りで安徳城に入城した味方が危機にひんしたため,義久が出陣しようとしたが,その後有馬における勝利の報が伝わったので,義久の出陣はとりやめられ,15町に1人の割で徴集した軍勢を有馬救援にさしむけることが決められた。同年8月6日,家久と上井覚兼に有馬渡海が命じられ,同26日には平田光宗にも家久を輔佐すべく渡海が命じられ,同年9月12日,有馬から迎船が来て平田宗張が渡海した。その後島津氏の家中において,有馬渡海を中止して阿蘇氏を撃つべきである,竜造寺氏と和睦して大友氏を撃つべきであるといった意見が出され,竜造寺氏との和睦の方向へ大勢が動き,晴信を当惑させたが,結局和睦はならず,翌天正12年2月2日,義久は諸将に有馬出陣を命じている。同26日,竜造寺隆信が肥後の合志親重を攻めるに至って義久は肥後出陣を決意,同年3月には島津勢が続々と有馬へ渡海した。同24日,ついに決戦が行われ,竜造寺隆信は討死,島津・有馬連合軍は勝利を収め,同年4月,上井覚兼らはなおも抵抗を続けていた神代以下の諸城を降伏させた。島津勢は諸城の警固や戦後処理などのためしばらく有馬に在陣し,同年5月に帰陣したが,島原・三会両城は以後も島津側の管理下に置かれた。その後,同21日,有馬において疫病が流行したため,帰国していた上井覚兼は海江田社へ部下除病の千矢の立願をし,同年6月には,有馬で覚兼の命に従わない者が現れたことが見える(以上,上井覚兼日記/古記録)。一方欧文史料には,1562年(永禄5年)イエズス会のアルメイダ修道士が有馬義貞の求めによって説教に派遣された頃から有馬の地名が見える。布教は翌年許可されたが,横瀬浦焼打ち後,義貞の父晴純は領内で一時キリシタンを禁止した(1563年11月17日アルメイダ書簡・1564年10月14日アルメイダ書簡/通信上)。晴純はこの時すでに隠居していたが,子の義貞に対する反対派の謀反を見て義貞を国外に放逐し,孫の1人に敵の1女を娶って事を収拾したことが欧文史料には見え(同前),フロイスも当時仙巌(晴純)の息子は位を退けられ,仙巌自身が統治していたと記している(フロイス日本史9)。口之津・島原についで有馬に教団ができたのは1576年(天正4年)の義貞の受洗が契機で,代官や家臣約30人とともにまず自身が,次いで夫人や子供が受洗し,領民にも信教を許可した(同前10)。しかし義貞が同年重態になると,千々石城から息子の晴信が有馬に移り,父の死後跡を嗣ぐと高来で激しい迫害を始めた。晴信はその時イエズス会に有馬の教会の地所返還を命じたが,その場所は義貞が与えた「薬師という仏の寺」で,そこの教会と司祭館は宣教師が退去したあと仏僧らに冒涜されないよう信徒によって焼かれた(同前)。ところが竜造寺氏が有馬領をうかがい,晴信の親族・家臣が竜造寺氏と結んで反起し,有馬城を包囲するに及び,晴信は洗礼を受けることを望み,領民の信教も許す決心をしたので,来日中のイエズス会巡察師ヴァリニャーノ神父は包囲中の有馬城に入り,1580年(天正8年)3月晴信(プロタジオ)とその親族・家臣に授洗した。有馬城ほか3城がこの時期に焼失したが,イエズス会は600クルザード(銀約4貫目)を費やして領民に糧食を,籠城に備えて城の人々に糧食・金銭・武器弾薬を与えたので,竜造寺氏は有馬占領を断念し,講和が開始され,竜造寺氏から2城が返還された。晴信はこの間寺社40余か所を破却し,主要な諸寺と地所を教会用地や建物としてイエズス会に与えた。この地域の教団はこの時3管轄区に分割され,第1区の有馬には神学校(セミナリヨ)が作られることになり,最良の地所の1つと,遊び場用の旧寺院1宇が与えられた。第2区は有家,第3区は司祭館のある口之津であった(以上,1580年ロレンソ・メシアの報告/長崎市史西洋部,フロイス日本史10)。1584年(天正12年)神学校用地がさらに追加され,翌年「慈悲の組」の聖堂の建築も始まった。有馬城は1583年3回目の火災にあった後,旧晴信邸の上の山頂に新邸が作られた。それは広間から海を望む立派な建物であった。その屋敷も含む壮大な城(日野江城)は1590年(天正18年)から翌年にかけて,もう1つの城とともに建築中だった(以上,1584年1月20日フロイス書簡/イエズス会日本年報上,フロイス日本史10・11・12,アビラ・ヒロン日本王国記)。「上井覚兼日記」天正11年3月8日条によれば,この時期薩摩においては宣教師の評判が悪く,島津義久が鹿児島の「南蛮僧」を有馬へ退去させたことが見え,同年8月28日条には,有馬の天神は「きりしたん宗」のために破滅させられたと記されている(古記録)。有馬領では,1587年(天正15年)の豊臣秀吉のバテレン追放令後もあまり混乱はなく,70名以上のイエズス会士と教育施設が移転してきた。翌年有馬修道院は明け渡されたが宣教師は領内に潜伏し,神学校は3月八良尾に移転した(1587年の日本年報/イエズス会日本年報下,フロイス日本史11)。1592年(文禄元年)から翌年にかけて有馬で刀狩が行われ1万6,000本以上の刀剣と無数の武器が徴収された(フロイス日本史12)。有馬の教会は晴信の庇護で目立たぬよう存続され,1598年(慶長3年)に寺沢広高の命で破却されたものの,1600年(慶長5年)晴信から新たに用地を与えられて新築され,次いで長崎から神学校も移転し(その後また長崎へ移転),諸教会も再建された(フロイス日本史12,一六〇〇年から一六〇二年度耶蘇会年報/県史史料編3)。有馬は,現在の南有馬町・北有馬町一帯に比定される。近世初期には有馬村として存在していたが,島原の乱を期に南北に分割された。「有馬原之城兵乱之記」によれば,有馬村の827軒全部が島原の乱の一揆軍に参加しており,その人数5,045人は処刑その他で全滅したと思われ,乱後の南有馬・北有馬両村は他地域からの移住者によって占められていた(島原半島史)。なお,「図書編」日本国図には「有馬島」なる島が見えるが,これは島原半島のことを指しているものと思われる(文淵閣四庫全書子部276)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7618205 |