栃る
【とちる】

totiru
【江戸時代】しくじる、失敗する。[中国語]説錯、{てへんこう}錯。fumble.
【語源解説】
江戸後期にみえる語。ただし古く16世紀にトチメク、トチメニナル、トチトチトなどの語があり、その派生としてトチルがつくられる。トチメクは本来は〈栃(とち)目(め)・栃(とち)目(め)になる〉の言い方の栃目で、これを〈栃目く{とちめく@栃(とち)目(め)く}〉と動詞化し、さらにトチルの語ができる。俗にびっくりして、〈ドングリ(栃と同類)眼(まなこ)になる〉と同じ表現で、びっくりしたり、あわてるの意で用いた。江戸時代にはトチルを楽屋隠語として、芸能人が台詞(せりふ)などをまちがえることに用いたのがはじまり。あわてれば失敗がつきものであろう。
【用例文】
○座敷もとちめいて(玉塵抄)○迷(トチ)めぐうのあし(メク)(雑字類書)○tochimecu. トチメク〔栃目ク〕戦争の際、敵の不意打ちにあったときとか、火事で家に火が燃えついたときとかに、不安でそわそわし、あわてる。トチトチトスル(日葡辞書)○顔ウチ赤メテトチメクニヨッテ(イソポ)○迷(トチ)めぐうのあし(メク)(易節用集)○栃目になるといふこと、あわてふためき、前後を忘(ぼう)じたるを「とちめになりて尋ねたら」「とちめになりて走りありきたるは」などいふ事、なんの故ぞ(醒睡笑)○みんなとちらぬやうにしやれ(草双紙)○橡(トチ)麺(メン)棒(バウ)ヲ掉(フル)(諺苑)○板左衛門何をとちりくさるぞいmini{板左衛門とは太夫をのゝしる詞}トチリとはうろたえて拍子の違ふこと也/鳴(な)り物が、かわろうといふ所からが、少(ちっと)小{シ}とつちる所が有る様だ(滑稽本)○とちめん坊、按に橡(とち)の実(み)にて麺をつくるより出たる詞也といふは付会説にてとちめく坊なるべし、とちめくは狼狽なす事也(中略)なほ此詞ふるくあるべし(中略)今とちめんばうをふるといふは彼麺棒の説におこりて後にそへたる詞なるべし(柳亭種彦)○トチメクを今はトチルとも云(俚言集覧)○トチル もと劇場の隠語で、とり急いで台詞を忘れ又は出場におくれること、転じて、1.車が途中で行き違って了う 2.答弁に窮する(東京方言集)
【補説】
トチルは楽屋ことば(隠語)であろうが、一般化は明治期にはいってであろう。また、〈栃麺棒(とちめんぼう)(坊)……〉という表現は誤解からで、栃は栃餅、栃飯などにはなるが、栃麺はない。なお、幕末の滑稽本『東海道中膝栗毛』の主人公の一人、弥次(やじ)さんこと、弥次郎兵衛は、屋号を〈栃面屋〉といったが、当時の俗な言い方、トチルと、栃麺棒にちなんでの作者の創作であろう。弥次さんはあわてもので、しばしば失敗を演じた。なお〈栃〉は日本製、本来は〈杤〉で、十(とう)・千(ち)=万から創作、さらに杤を増画して〈栃〉とした字形。中国の漢字では同じトチは〈橡〉。

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