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南北朝の動乱はなぜ60年も続いたのか


南北朝の動乱はなぜ60年も続いたのか

◎京都の北朝、しぶとい吉野の南朝

 後醍醐天皇に敗れた足利尊氏は1336年、九州で再起し、天皇軍を撃破して京都を占拠。持明院統の光明[こうみょう]天皇を擁立(北朝)して、室町幕府を創立した。

 一方、後醍醐天皇は、いったん尊氏と講和を結んだものの吉野(奈良県吉野町)へ脱走し、南朝をおこした。こうしてわが国に朝廷(天皇)が2つ並立するという前代未聞の「南北朝時代」が始まるのである。

 以後、幕府(北朝)と南朝は、全国で激しく対立したが、新田義貞や北畠顕家[あきいえ]といった南朝方の武将が次々に討ち死にし、1339年には後醍醐天皇が死没、跡を継いだ後村上天皇がまだ12歳の少年だったため、南朝勢力は急速に弱体化していった。しかし、それでも南朝は滅亡しなかった。

 当時の武士社会は、分割相続から単独相続への移行期にあたり、嫡子[ちゃくし](家督の相続者)と庶子[しょし](嫡子以外の子)の相続争いが激化して、片方が北朝につけば他方は南朝に加担するといった状況が生まれていたため、南朝の存在意義は大きく命脈を保ち得た。が、1348年、南朝は大挙して来た幕府軍に大敗を喫し、風前の灯火となる。

◎内輪もめの間に復活する南朝

 ところが1350年、室町幕府に内乱(観応[かんのう]の擾乱[じょうらん])が勃発する。全国政権をめざす急進派(尊氏と執事の高師直[こうのもろなお])、鎌倉幕府を理想とする漸進派(尊氏の弟・直義[ただよし]と養子・直冬[ただふゆ])のあいだに齟齬が生じ、ついに敵対関係に入ったのである。

 尊氏と直義は、牽制のためにそれぞれ南朝と和を結び、抗争を有利に展開しようとした。内乱は、高師直が直義に殺されたことで頂点に達し、尊氏が直義を毒殺したことをもって一段落した。しかしこの間、南朝は勢力を盛り返し、京都にたびたび乱入して同所を占拠、1358年に尊氏が死んで嫡子の義詮[よしあきら]が2代将軍についてからも1361年に都を奪回している。けれども、1368年に義満が3代将軍になると、今川貞世[さだよ]の活躍により南朝の中心勢力であった九州が平定された。

 南朝の皇位は、後村上天皇から長慶天皇、次いで1383年に後亀山天皇が継承したが、すでに南朝に往年の勢いはなく、衰微しきっていた。

 1392年、将軍足利義満は南北朝の合体を南朝方へ打診した。条件は、後亀山天皇が北朝の後小松天皇へ譲位するかわりに、南朝方の皇子を皇太子にするといったもの。後亀山天皇はこれを了承し、京都に帰還して後小松天皇に神器を譲って退位した。こうして60年あまり続いた南北朝の動乱は、ようやく終結を迎えたのだった。




日本実業出版社
「早わかり日本史」
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