早わかり日本史 第3章 武士が主導する時代 鎌倉幕府の誕生から室町時代へ 460 北山文化を出現させた足利義満 ◎250年間に将軍が15人も出た 室町幕府は、1573年に崩壊するまでの約250年間に、15人の将軍を出している。簡単に、足利尊氏以降の将軍の生涯や人物像をみてゆこう。 尊氏の跡を継いで2代将軍になった義詮[よしあきら]の治世は、南朝の勢力がまだ強大で、何度も京都を奪われるなど幕政は安定せず、義詮は南北朝の動乱のなかでその生涯を閉じた。 3代将軍義満[よしみつ]は11歳で将軍となり、やがて後見役の細川頼之[よりゆき]を退けて独裁体制をしき、山名氏清[やまなうじきよ]、大内義弘などの有力な守護大名を征伐した。1392年には南北朝の合体に成功し、室町幕府の最盛期を現出させたのも義満だった。 また、明(中国)との貿易を開始し、幕府の財政基盤を安定させている。出家後、義満は京都北山(金閣寺を含む)に移り住み、ここが北山文化の発信地となった。晩年は朝廷の実権を掌握し、次男義嗣[よしつぐ]に皇位を継がせようとしたが、実現せぬうちに没してしまった。 4代将軍義持[よしもち]は父義満に反感をもち、父が死ぬと、朝廷の義満への尊号を辞退し、朝貢という形式をとる日明貿易を屈辱的だとして中止した。1423年、義持は息子の義量[よしかず]に将軍職を譲るが、大酒飲みの義量は健康を害して19歳で早世、そのため再び政務を担当することになるが、3年後、義持も43歳の若さで没した。◎くじ引きで決まったラッキー(?)な将軍 義持が後継者を決めずに亡くなったため、次の将軍は、義持の弟4人のなかからなんとくじ引きで決められたのである。栄えある当選者は青蓮院[しょうれんいん]の僧侶・義円で、義教[よしのり]と改めて6代将軍に就任した。義教ははじめ重臣に政務を委任していたが、やがて専制体制をしき、ささいな理由で意にそわぬ貴族や大名を次々に抹殺していった。 1439年には、鎌倉公方・足利持氏を自殺に追いやっている(永享[えいきょう]の乱)。だが、このような苛酷な粛清が、家臣たちを疑心暗鬼にし、領地を没収されて殺されると思い込んだ播磨の武将・赤松満祐[みつすけ]によって、義教は謀殺されたのである。 日本実業出版社「早わかり日本史」JLogosID : 8539545