お江戸の道徳・儒学とは何だったのか?


◎朱子学は支配者に都合のいい学問
江戸時代になって社会が安定すると、為政者たちは儒学的教養が必須とされるようになる。庶民も道徳理念として儒学を重視するようになり、にわかにその教えは普及していく。
日本の儒学には、大きく朱子学[しゅしがく]・陽明学[ようめいがく]・古学[こがく]の3派があり、その主流をなしたのは、幕府の正学(官学)となった朱子学である。
朱子学というのは、南宋の朱熹[しゅき]という人物が大成した学問で、すでに日本には鎌倉時代に伝来していたが、君臣上下の身分的秩序を絶対視する「大義名分論」が、封建的支配の正当性をとなえる支配層に都合がよかったことから、急速に大名や武士の間に広まった。
日本の朱子学には、京学と南学の2派がある。主流は京学で、創始したのは京都相国寺の僧・藤原惺窩[せいか]。その弟子林羅山[らざん]は徳川将軍家につかえ、林信篤[のぶあつ]は5代将軍綱吉の代に大学頭に任じられ、聖堂学問所(のち昌平坂学問所)を主宰する厚遇を受けた。南学は土佐の南村梅軒[みなみむらばいけん]が創始し、谷時中[じちゅう]、野中兼山[けんざん]を出した。
◎陽明学は反体制思想
陽明学とは、明の王陽明が創始した学派で、「知行合一」(知識・道徳は、ただちに実践に移せ)を何よりも重視する。日本で陽明学を確立したのは中江藤樹[なかえとうじゅ]であり、彼は近江聖人と崇められ、多くの門弟を得た。その門弟の1人に熊沢蕃山[ばんざん]がいる。
蕃山は岡山藩主池田光政に登用されたが、その著書『大学或問[だいがくわくもん]』で、武士は土着すべきだと説いたり、幕政を批判したため、下総国古河に幽閉された。ちなみに由井正雪は、蕃山の影響を受けて反乱にいたったとされる。
陽明学者には、大塩平八郎、佐久間象山、吉田松陰といった反体制派の人々が多く、幕末の志士にも同学を奉じる者が多数あった。
◎古学は原典主義
朱子学や陽明学にあき足らず、孔子や孟子の原典から学ぼうとした一派を古学派と呼ぶ。同派は山鹿素行[やまがそこう]の聖学、伊藤仁斎の堀川学派、荻生徂徠[おぎゅうそらい]の古文辞学派に分かれる。山鹿素行は、朱子学を非難して赤穂に流されたが、のちに赤穂の浅野家に仕えた。

![]() | 日本実業出版社 「早わかり日本史」 JLogosID : 8539577 |