早わかり世界史 第1章 最初に生まれた四つの世界 3.インド世界と東南アジア 391 インダス川の文明からガンジス川の文明へ ◎インダス文明は環境破壊により衰亡した! インド北西部を流れる長さ約3000キロのインダス川流域では、前2300年ごろからインダス文明が栄えた。モヘンジョ・ダロとハラッパが2大都市で、交易ネットワークはペルシア湾を経由してメソポタミアにもつながっていた。 二つの都市は、同一規格の焼レンガでつくられており、整然とした舗装道路、下水設備などのほかに大沐浴場、城砦、穀物倉庫群を備えていた。とくに最盛時の人口が3万人といわれる1.6キロ四方のモヘンジョ・ダロは、整然とした都市プランをもち、幅10メートルの大通りと3メートルの通りが碁盤の目状に市街地を区切っていた。各戸には汚水溜が設けられ、汚水が4分の3に達した時に、自然に幅30センチの下水溝に流れ出すしくみがつくられていた。 インダス文明では、木綿が普及しており、交易に利用されたと思われる滑石製の印章に刻まれた250~400種類のインダス文字の存在が明らかになっているが、単語のみで文章がないために解読はされていない。 文明の担い手は、現在南インドを中心に居住するドラヴィダ人と考えられている。彼らの聖牛・菩提樹・水の浄化力などに対する信仰は、後の文明に受け継がれた。これほど栄えたインダス文明だが、都市が求める大量のレンガを焼き上げるために、流域の樹木を濫伐したことなどから洪水がくり返し起こるようになり、前1700年ごろには衰亡してしまった。環境の破壊が、文明の基盤を崩したのである。◎移動を続けてインドの主役に躍り出たアーリア人 一方、中央アジアで遊牧生活をおくっていたアーリア人は、前2000年ごろから移動を開始し、前1500年ごろにはインダス川上流のパンジャブ地方に定住した。彼らは、インダス文明の担い手であったドラヴィダ人を征服した。 アーリア人の一派は、前1000年ごろになると先住民を征服しながら湿潤なガンジス川流域に少しずつ進出した。地味が肥えたガンジス川の流域は穀倉地帯として、以後、インド史の主要な舞台となった。中流域では都市国家が成長し、前6世紀にはマガダ国など16の国々が争い合うことになる。 ちなみに、厳格な世襲的身分制度のカースト(種姓)制は、アーリア人が移動する過程で先住民を差別待遇することにより生まれた。 日本実業出版社「早わかり世界史」JLogosID : 8539717