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アラブ帝国から“イスラム”帝国へ


アラブ帝国から“イスラム”帝国へ

◎世襲されたカリフとウマイヤ朝

 アラブ帝国の最後の正統カリフである、第4代カリフのアリーが661年に暗殺されると、対抗相手だったシリア総督ムアーウィヤが、シリアのダマスクスでカリフを称して「ウマイヤ朝」を開いた。本来、カリフは、イスラム教団の指導者であったが、彼の後の14人のカリフはすべてウマイヤ家出身者で占められたために、王朝としてあつかわれている。

 ウマイヤ朝はビザンツ文明の影響を強く受けたが、高級官僚を独占するなどアラブ人は特権をもっており、イスラム教に改宗した異民族は、被征服民として差別された。要するにウマイヤ朝は、「アラブ帝国」だったのである。

 そうしたことから、帝国内部の反体制勢力のおさえ込みに苦心したウマイヤ朝は、8世紀前半に再度の征服運動を展開して、イスラム帝国の領土を最大規模に拡大した。

 東方では、インダス川流域・西トルキスタンを占領し、西方では、北アフリカからイベリア半島に勢力を伸ばして、ゲルマン人の西ゴート王国を滅ぼした。

◎内陸に追いやられたキリスト教世界

 余勢をかったウマイヤ軍は、ピレネー山脈を越えてフランク王国に侵入し、ヨーロッパのキリスト教世界は存亡の危機に立たされた。

 しかしフランク軍は、732年に、南フランスのトゥールとポワティエの間で行なわれた戦争でからくも勝利し、キリスト教世界は危機を逃れた。だが、活発な商業活動が行なわれていた地中海は、完全にイスラム世界に組みこまれてしまい、キリスト教世界の中心は、内陸部の農業地域へと移っていった。

◎アラブ帝国からイスラム帝国へ

 シーア派の反体制運動でウマイヤ朝が混乱に陥ると、750年にアル・アッバースがイラン人の反体制運動を利用して政権を奪い、「アッバース朝」を開いた。

 アッバース朝は、中心をかつてのササン朝の領域(イラン世界)に移し、シーア派を弾圧すると同時にアラブ人の特権を廃止して、すべてのイスラム教徒は平等であるとしてイスラム法による統治を開始した。

 つまり、民族に関係なく有能な人物を登用する国際的なイスラム帝国をうちたてたのである。他方で、カリフは「地上における神の代理」として、自己を権威づけた。こうしたアラブ帝国から「イスラム帝国」への変革を「アッバース革命」という。

 一方、ウマイヤ朝カリフの一族はイベリア半島に逃れ、756年にコルドバを首都とする「後ウマイヤ朝」を建てた。そのためイスラム帝国は東西に分裂する。

 また、751年には中央アジアのタラス河畔で唐軍を破ってシルクロードに進出。この戦いで、唐の紙漉き職人が捕虜となってサマルカンドに連行され、紙の製法がイスラム世界に伝えられることになった。




日本実業出版社
「早わかり世界史」
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