1人の貧農が蘇らせた中華帝国・明


◎モンゴル風を廃し中華を回復せよ!
元の末期に、白蓮教という仏教系の秘密結社が「紅巾の乱」を起こすと、貧しい農民から身を起こした指導者の1人、朱元璋(太祖洪武帝)は、結社をぬけて地主勢力と手を結び、「回復中華」のスローガンをかかげて覇権を確立した。彼は、1368年にはモンゴル人をモンゴル高原に追いやり、金陵(現在の南京)を都とする明を建てた。
太祖洪武帝は農本主義にもとづき、徴税の徹底と農民の軍事利用の体制を整えた。政治面では、すべての官庁を皇帝の直轄にするとともに、錦衣衛という秘密警察に官僚を徹底して監視させ、在位中に10万人以上を処刑して独裁体制を固めた。
また、彼は「一世一元の制」を実施した。その結果、皇帝の統治期が一つの元号として、皇帝の名で呼ばれるようになった。この制度は、明治以来、日本に導入されて、現在も続いている。
また太祖洪武帝は、帝国の支配を安定させるために、民間商人の海外貿易を禁止し(海禁)、国家が政治的に貿易を管理する朝貢貿易(勘合貿易)を行なった。その結果、宋から元にかけてユーラシア規模に拡大した海外貿易は急速に縮小してしまった。
◎アフリカにも行った鄭和艦隊
15世紀の初め、3代永楽帝が、クーデターで帝位についた。彼は、自ら軍を率いて5回にわたるモンゴル高原への遠征を行ない、80万人の軍でヴェトナムを征服し、宦官を使節として周辺諸地域に派遣し、中華帝国を中心とする世界秩序の再編をめざした。とくに、イスラム教徒の宦官の鄭和は、8000トン程度と推測される木造船など62隻、2万7000人あまりの乗組員からなる艦隊を率いて7回にわたりインド洋への航海をくりかえし、明帝国への朝貢を呼びかけた。
彼の艦隊は、遠くアフリカ東岸にも及び、キリン、ヒョウ、ダチョウなどの珍しい動物を明帝国にもたらした。また、永楽帝は、モンゴル高原の遊牧民と戦うために、都を南京から軍事拠点の北京に移し、北からの脅威にそなえた。

![]() | 日本実業出版社 「早わかり世界史」 JLogosID : 8539759 |