100辞書・辞典一括検索

JLogos

53

オスマン帝国の衰えに優位に立とうと争う列強


オスマン帝国の衰えに優位に立とうと争う列強

◎黒海のまわりでモメる列強

 ヨーロッパに自由主義、ナショナリズムの思想が広がるなかで、多数の民族から構成されるオスマン帝国の支配下にあった諸民族の間にも民族運動が広まった。

 ヨーロッパ列強は、ここぞとばかりにオスマン帝国内の紛争に介入し、互いに争った。そうした東地中海、黒海周辺での列強の争いは、ヨーロッパ最大の国際問題となっていった。それを、ヨーロッパの側からみて「東方問題」という。

 「東方問題」の起点となったのは、ギリシア独立戦争(1821~29)であった。ロシア、イギリス、フランスの支援を受けてギリシアはオスマン帝国からの独立をなしとげるが、その際にロシアは黒海とエーゲ海を結ぶ海峡(ボスフォラス海峡、ダーダネルス海峡)の航行権を獲得した。

 その後、フランスの援助を受けて上からの「西欧化」を進め、強大な軍事力をもつにいたったエジプトが2回にわたってオスマン帝国からの自立、領土拡大を求める戦争を起こすと、列強の利害が対立した。結局イギリス主導の解決がなされ、ロシアの地中海進出、フランスの影響下にあるエジプトの独立が阻止された。

◎争いの中心になったバルカン半島

 ロシアは、その後クリミア戦争を起こし、オスマン帝国を屈服させることで南下政策を実現しようとしたが、イギリス、フランスなどがオスマン帝国を援助したことからロシアは敗北し、南下政策は完全に挫折した。

 その後、バルカン半島ではロシアの支援を得て、スラブ民族の独立をめざすパン・スラブ主義の動きが強まった。オスマン帝国が弾圧する構えをみせると、それを口実にしてロシアは露土戦争(1877~78)を起こし、エーゲ海に面する領土をもつブルガリアを支配下に入れて一時的に南下政策を実現させた。

 しかし、バルカン半島におけるロシアの優位と地中海進出は、イギリスとオーストリアの猛烈な反対にあう。そこで、新興国ドイツの仲介で1878年にベルリン会議が開催されることになった。会議で結ばれた「ベルリン条約」により、バルカン3国(ルーマニア、セルビア、モンテネグロ)の独立承認、ブルガリアの領土縮小、イギリスのキプロス島領有、オーストリアのボスニア・ヘルツェゴヴィナの行政権獲得など、列強の勢力のバランス維持がはかられ、ロシアの南下政策はまたもや挫折する。

 その後もこの地域では列強の対立が続き、20世紀初頭のバルカン紛争に引き継がれていく。




日本実業出版社
「早わかり世界史」
JLogosID : 8539792