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(近世〜近代)江戸期〜現在の町名。はじめ1〜4丁目,昭和40年からは1〜2丁目となる。江戸期は広島城下広瀬組に属す。広島城の南西,本川西岸の塚本町から小屋川(天満川)に架かる小屋橋東詰に至る西国街道沿いの町筋。町名の由来は当地町割の時,和泉国堺から来住した境屋にちなみ境屋町と称したことによる(知新集)。元和5年の城下絵図では「堺町」と記す。寛永2年の家数改では堺町1〜2丁目・堺町3〜4丁目の2町に分け,それぞれ本家59・借屋65,本家61・借屋6。当町は可部街道が分岐する地で,また城下西端に位置する交通の要所であるため,馬継場(伝馬所)が置かれ馬40頭が用意された。馬継場では伝馬肝煎役,その下に馬方・人足がいて伝馬御用のほか旅行者の人馬の継ぎ立て,貨物輸送にあたった(新修広島市史)。天和3年の切絵図では3丁目・4丁目は別町としたが,文政年間頃には3丁目・西大工町を結び町とし,4丁目は独立した一町と扱われた(知新集)。「知新集」では1〜2丁目の町間数2町56間余,家数87・竈数116(本竈35・借竈81)・人数482,うち傘張3・縫針師2,本道医・外科医・大工・表具師・桶屋・更紗染師・紅絞染・釣灯師各1,四町目は町間数1町51間余,家数52・竈数47(本竈20・借竈27)・人数212うち本道医・大工各1。芥河屋助右衛門は毛利氏広島開発の時,佐東郡古市村より来住,家地を給され目代役を勤め,酒造を営んだ。医師星野良庵は元和年間石見国浜田から西地方町に来住,のち当町に移転(同前)。その4代目良悦は船入村西一の割堤根を開拓,また寛政2年藩から刑屍をもって研究することを許され,わが国初の人体骨格模型を制作。幕命により医学館に納められ身幹儀と命名された(新修広島市史)。ほかに町内には穀物問屋の満足屋,質貸の和泉屋,酒造を営んだ芥河屋の分家2軒,浅野氏入国に従って紀伊国より来住した馬頭助兵衛が住んだ(知新集)。明治11年広島区,同22年広島市の町名となる。明治15年広瀬村の一部を編入。明治前期,造酒屋・足袋製造商のほか鍋釜・下駄草履・砂糖など各種の卸商が集中し,同32年には一町目に小間物・袋物商を主とする堺町勧商場も開場されてにぎわいをみせた(明治16年の広島諸商仕入買物案内記,明治33年の広島繁昌記)。大正元年広島電気(現広島電鉄)の市内電車相生橋〜己斐(こい)間が開通,堺町電停が設置された。昭和10年の堺町・塚本町の小売商を除く物品販売業74・補助業9・接客業4・その他20。全市の物品販売業の4割強が集中している(新修広島市史)。大正6年の戸数288・人口1,345,昭和26年の世帯数154・人口652。同40年土橋町となり,塚本町・西新町・榎町・北榎町・小網町・西大工町の各一部を編入。同55年中区の町名となる。
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