恋ケ窪
【こいがくぼ】

旧国名:武蔵
鯉ケ窪とも書く。武蔵国分寺北方,段丘の南端部一帯。段丘の下は湧水が豊富で,野川の水源となっている。中世初期に鎌倉街道の宿駅があり,遊妓等もいたことにより起こった地名といい(新編武蔵その他),畠山重忠に寵愛された夙妻大夫なる遊女が,重忠戦死という偽言に迷い,悲しみの余り自ら命を絶ったという伝説が残る(武蔵夜話・江戸名所)。地名の由来については,その他,武蔵国府の所在地府中に近い窪地であることによるとか,湧水に恵まれた窪地であるため,鯉を養って旅人に供したことによるといった説がある。なお聖護院道興准后が文明18年当地を訪れて詠んだ「朽ちはてぬ名のみ残れる恋ケ窪今はた訪ふも知記りならずや」の歌が「廻国雑記」に見え,また江戸期には地内を走る往還の傍によこれ塚なる塚があり,塚上の古碑には「応永九年壬午八月十五日,了圭禅尼」との銘があった(新編武蔵・武蔵名勝)。奈良末~平安初期の寺院址と推定される恋ケ窪堂跡かといわれる。
【恋ケ窪村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【恋ケ窪(近代)】 明治22年~昭和42年の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7060344 |




