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白河荘
【しらかわのしょう】


旧国名:越後

(中世)平安末期~戦国期に見える荘園名。越後国蒲原郡のうち。長承3年8月28日の越後国司庁宣に「白川庄」と見え,当荘は四至牓示が打たれ,関白藤原忠通領として成立した(九条文書)。忠通は娘の皇嘉門院聖子に譲渡し,聖子は治承4年5月11日養子の九条良通(聖子の兄九条兼実の長子)に「ゑちこ しらかハ」を譲った(同前)。文治4年良通が早逝したため,遺領は実父兼実の管領となり,以後室町中期の九条政基の代まで九条家領として伝領された(経覚私要鈔宝徳4年4月26日条)。文治2年2月日の関東知行国乃貢未済荘々注文に「〈殿下御領〉白河庄」と見え,当荘は摂政近衛基通領となっており(吾妻鏡文治2年3月12日条/鎌遺60),九条家は領家職を保持した(九条家文書建武3年8月24日付左大将家政所注進当知行地目録案)。預所職は安貞2年6月侍従能忠朝臣の相伝が認められている(九条文書)。建久8年5月日の白河荘年々作田注文案によると,仁平2年の検注の際本田数は300町であったが,治承3年には252町に減り,文治元年21町まで減少,建久5年192町余まで回復し,同7年158町余となっている(同前)。このような激しい作田数の増減は,阿賀野川の洪水による田地の喪失や水損・干損のほか,治承4年に始まった治承・寿永の内乱で城助職が兵粮として弁済したことなどによる。当荘は城助職が荘官として領知し,助職は「白川御館」と号していた(玉葉養和元年7月1日条)。内乱で城氏が滅亡したのち,鎌倉初期伊豆の豪族大見氏が当荘の地頭に補任され,一族が荘内に展開する。寛喜元年8月11日大見実景は当荘の水原(すいばら)条・舟江条を子息行定に譲り(反町大見水原文書),その子孫は水原氏を称し山浦氏を分出した。一方,行定の兄時実にも当荘内の地頭職が譲渡されたとみられ,文永9年8月25日若鶴丸(頼資)は父時実から譲られた「白河庄上条内安田条」地頭職を鎌倉幕府から安堵されており(反町大見安田文書),時実の子孫は安田氏を称した。元亨2年3月7日の平連資大神宮役夫工米配分状案によると,当荘の田数は131町余でうち上条分は32町余(同前)。鎌倉末期には別駕(秋田氏)が当荘を拝領したとみられる(金沢文庫文書年未詳11月2日付金沢貞顕書状)。南北朝期に入り,当荘は佐々木加地氏の所領となり,観応2年2月13日足利尊氏は細川頼和に「白河庄上下条〈佐々木近江入道跡〉」を勲功の賞として宛行い,応永10年8月1日頼和の子頼氏は遁世するため当荘上・下条を由緒のある佐々木長綱に譲っている(野田文書)。この間,延文4年10月22日佐々木弥童子丸は父秀氏から譲られた当荘などの地頭職を足利義詮から安堵されている(佐々木文書)。永正年間の蒲原郡白河荘等段銭帳には,白河荘の知行者として水原・安田両氏のほか原宗安・堀越孫六・常尾・泉谷・白蓮寺・観音寺が見える(斎藤実寿所蔵文書/県史研究19)。当荘は東限を五頭山塊,阿賀野川を南・西限とし,豊浦村北辺で豊田荘と接し,北限は福島潟西岸の豊栄市山飯野・里飯野付近で,荘域は安田町・水原町・京ケ瀬村・笹神村と豊栄市の一部が含まれる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7074315