100辞書・辞典一括検索

JLogos

59

北新村
【きたにいむら】


旧国名:信濃

(近世)江戸期~明治7年の村名。筑摩郡のうち。梓川右岸に位置する。用水堰の開削によって開かれた新村のうち北方が当村になったといわれ,天正5年2月3日の武田勝頼安堵状案に波田の若沢寺領として見える「同(信府)新村北方 五百文」は,当地のことと考えられる(若沢寺文書/信史14)。武田氏滅亡後の同10年7月28日新村伝右衛門は,「北新村之内伊賀分」の40貫と手作地10貫文を小笠原貞慶から宛行われている(御証文集/信史15)。松本藩領。村高は,「慶長改帳」1,606石余,「正保書上」845石余,「元禄郷帳」513石余,「天保郷帳」590石余,「旧高旧領」640石余。延宝2年上新村と下新村を分村。天明4年の宗門改帳の総人数262(男130・女132),慶応4年は総人数443(男232・女211)。延宝2年の検地帳に本百姓23軒半・門屋敷19軒とある。安政2年の安曇筑摩両郡村々明細書上帳(県史近世史料5-1)では家数70・人数393(男199・女194)。上新村との境に岩崎神社があり,当村と下新村・上新村の3か村の鎮守。梓川に露出している岩盤がこの神社まで続いていて,社名はその岩の上にたつ神社の意と伝える。同社は諏訪明神と同体で,仁寿3年勧請(信府統記)。例祭に堰を川干しし,とった魚を神前に供える川干しの神事がある。代かきの時期に川干しをするため下流の村々とたびたび紛争が起きた。神社は東向きで,堰の上流を拝することになる。新村堰の開削は古く,梓川から取水している。また栗林堰・榑木堰などが村内を流れる。中条など条里的遺構にかかわる地名も残る。梓川右岸の新田開発が進むに伴い,刈敷が不足し入会山山元の上波田村・下波田村としばしば山論を起こした。幕府評定所の裁定を受けた寛文8年の山論は,当村の農民が波田山のうち堂ケ入で刈敷を刈り竹田村と争ったことが発端。明和元年中馬裁許状の中馬稼村之馬数では当村は12疋。野麦道はいくつかの「かぎのて」を経て村内を通りぬけ,ほかに当村を中村道・中条道が通る。万延元年加賀藩の参勤交代通行誘致運動が起こり,道路・家屋を整備したが実現しなかった。市天然記念物のビャクシンの古木は,野麦道沿いの民家の裏にある。浄土宗専称寺は永禄元年甚蓮社幸誉同上人開基と伝え,延享2年南新村の現在地へ移った。もと同寺境内に信入院・長養軒の寮舎をもっていた。清浄院は専称寺末で,念蓮社正誉見阿の開基といい,明治初年の廃仏毀釈により廃寺,仏具などを売却して学校設立資金に組み入れられた。真言宗新福寺も廃寺となり,阿弥陀堂が残る。また,地内に三の宮(沙田神社)の祭神の足跡石と伝える石がある。明治4年松本県を経て筑摩県に所属。同7年新村の一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7100397