瀬沢村
【せさわむら】

旧国名:信濃
(近世)江戸期~明治7年の村名。諏訪郡のうち。八ケ岳と釜無山の間,立場川と釜無川合流地の北に位置する。甲州街道が南北に通過する。正和4年坂本氏が琵琶湖の付近より移住したと伝える(坂本家系図書)。地名の由来は,立場川・乙貝川の瀬による。戦国期頃と推定される年月日未詳の「十三所造宮」によると,諏訪社上社である酒蔵御宝殿の造営役が木間・大平などとともに当地に課せられていたことが知られる(諏叢26)。また江戸初期に集成された「甲陽軍鑑」には,天文11年3月に武田晴信と信濃の諸将との間で行われた合戦について「甲斐境せさハ合戦之事」と見える(甲斐史料集成)。高島藩領。村高は,「慶長高辻」105石余,「正保書上」430石余,「元禄郷帳」105石余,「天保郷帳」では197石余でほかに当村枝郷に瀬沢新田村308石余が記され「旧高旧領」258石余。瀬沢新田村は元和9年当村地分に開発された。慶長16年藩主より毛付5つ3分のうち8分免除の御沙汰書を得る。慶安元年検地目録104石余。享保17年検地目録243石余。天明5年調御役儀高258石余。年貢率は3つ9分,下山畑大豆2つ4分。小物成は小渋柿・馬槽。享保18年の戸数45,戸数・人口は,宝暦5年37・371,天明5年68・322,文化12年82・333。村役人は名主2名・年寄3名。高島城へ5里30町余。産物は五穀のほか産馬。文化4年の当村の職業に山稼木挽2・指物師2・板枌2・ザル造2・下駄造4がある。入会地は甲斐2か村,諏訪16か村入会の釜無山。鎮守は諏訪神社。比叡山園城寺の阿闍梨師の開山といわれる天台宗西照寺は,元禄12年三光寺の隠寮となり曹洞宗養福院に改められる。上蔦木宿助郷25か村,下諏訪宿大助郷57か村のうち。明治4年高島県を経て筑摩県に所属。同6年静修学校開設。同7年落合村の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7101525 |




