府内城
【ふないじょう】

府内藩主の居城。現在の大分市荷揚町にある。平城。はじめ荷揚(にあげ)城。雅名は雉城または白雉城。慶長2年2月,石田三成の妹婿福原直高が臼杵(うすき)6万石から,大分・速見(はやみ)・玖珠(くす)3郡の内において6万石を宛行われ,3月3日府内に入封した。ただちに新城の構築に着手し,場所を大分川畔の荷落(におろし)と呼ばれる地区に決定し,城域を8町四方とした。これを本丸・二ノ丸・三ノ丸に割り,三ノ丸予定地内にあった大友氏泰創建の同慈寺および大友政親建立の宝殿は残している。用材は領内および土佐に求め,石材も領内外から集めた。慶長4年4月には城および家臣の住宅もほぼ完成し,旧府内屋形より入城した。城名の荷揚城は,荷落を改め荷揚としたことによる。同年5月福原氏は朝鮮の役において私曲ありとして改易。同年木付(きつき)(杵築)城主早川長敏が再封され,2万石を領したが関ケ原の役で除封。同6年国東(くにさき)郡高田城主竹中重利が大分郡内2万石を領し入封。重利は城の修改築を開始し,同7年3月には天守・諸櫓・土塀が完成した。ついで城下に町割りをし,町筋を48町とし,大友氏時代に形成された町々を移転させ,以後府内城と改名した。寛永11年竹中氏改易,府内城は岡藩主中川久盛と木付藩主小笠原忠知が城番となり,5月以後は中川氏が専任となった。同年7月日根野吉明が下野国壬生(みぶ)城から2万石を領し入封。明暦2年日根野家断絶。5月木付藩主松平英親と日出(ひじ)藩主木下俊治が城代として入った。翌年臼杵藩主稲葉信通が代わって在番となる。万治元年3月松平忠昭が2万石を領し高松(大分市)から入封,以後松平氏の城として幕末を迎えた。これより先,寛保3年4月7日下柳町市兵衛宅より出火,火は三ノ丸侍屋敷を焼いて城中に移り,天守・櫓14・多門1・大門2・冠木門3・廊下橋2・番所1などが焼失した。残ったのは坤角櫓などわずかであった。翌延享元年再建を開始し,10月5日二ノ丸竣工。東ノ丸は寛延元年着手,12月落成。本丸は再建されなかったらしい。安政元年11月の大地震では,「城内住居向並諸役々詰所,不残潰,櫓拾ケ所,内二重櫓三ケ所潰,平櫓一ケ所潰,二重櫓四ケ所修覆難相成大破,平櫓一ケ所右同断,多門櫓弐ケ所,内壱ケ所潰,壱ケ所大破」と大きな被害を受けている。以後大正8年の新県庁建設まで県庁として存続した。昭和20年の戦災で南・西・北三方の塀と,南側の塀に沿う宗門櫓,北側の人質三番手櫓だけを残し罹災した。他の角櫓は昭和41年の大分国体に当たり復元された。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7233140 |




