100辞書・辞典一括検索

JLogos

55

益子村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。芳賀郡のうち。黒羽藩領。黒羽藩領知高書上によれば,慶長7年の御加増分として益子村951石9斗3升が見え,ほかに当村のうちから黒羽藩主大関氏の重臣である津田光明院に42石8斗6升2合,松本惣左衛門に410石4斗8升8合,松本大隅に158石1斗が給付されている(県史近世4)。これは,徳川家康への人質差出しについての論功行賞として幕府から大名の家臣へ与えた恩給地で,特殊性を有する給地であった。しかし,寛文年間の検地に不満をもった彼らは,黒羽藩を立退くという事件が起こり,この結果藩領内にある恩給地(いわゆる公知)という複雑な地方知行制が解消され,黒羽藩の直接支配地となった。村高は,「慶安郷帳」2,790石(田1,860石・畑930石),ほかに観音・観音寺・鹿島・政宗寺・愛宕山領89石(田56石余・畑28石余),西光院領5石,「元禄郷帳」1,573石余,「天保郷帳」1,697石余,「旧高旧領」1,831石余で,このうち西明寺領41石余・鶏足寺領16石余・観音寺領15石余・正宗寺領8石余・鹿島明神社領7石余・愛宕神社領6石余。文化年間の反別は,田125町9反余・畑134町余(創垂可継)。助郷は,天保2年から奥州街道越堀宿の代助郷,ほかに日光社参などの際は日光街道徳次郎・雀宮・石橋宿,奥州街道氏家宿などの加助郷を勤めた。家数は,文化年間171(同前),天保年間76(改革組合村),安政3年72(飯塚家文書/益子の歴史),嘉永2年の名請人数167(同前)。嘉永2年の古検地押改水帳に古高1,608石余・新田打出高194石余とある(菊地家文書)。当村は黒羽藩の飛領である芳賀郡内6か村(益子・生田目【なばため】・上大羽・七井・深沢・清水)のいわゆる下之庄6か村の1つで,下之庄支配の拠点として陣屋が置かれた。その陣屋は現在の内町日下田実氏宅にあり,下之庄6,000石を管轄し,安政元年の総人口は2,652人であった(益子の歴史)。陣屋には黒羽藩から郡代官・郷奉行が派遣され,蔵奉行・山奉行・舛取り・郷廻り・宰領・作事方などの下之庄内から任命された役人を指揮して支配した(同前)。地内は新町・内町・城内・道祖土・石並の5組に分かれ,各名主が置かれた。名主など村役人に就く長百姓は享保15年の時点では新町の飯塚・大久保・久野,内町の稲沢・木村・菊地・平野,城内の神谷,石並の佐藤の9家であった(飯塚家文書)。寛永11年北益子村を分村(益子町誌)。元禄15年当村内の大野・丸岳・北高谷の秣場入会権をめぐって北益子村・中村と入会争論が起きた。幕府評定所の裁定によって北益子村・中村は当村に山銭を払って10月1日から3月末までの落葉・枯枝取りを認められたが,この争論は文化14年にも再燃している(益子の歴史)。黒羽藩では毎年5月に領内の村々に村高に応じて一定の規格の薪を納めさせていたが,この薪納は領内の農民に重い負担を強いることとなった。享保年間には下之庄に課せられていた薪納役の増加をめぐって百姓一揆が起こり,寄宿浪人藤根善治が単身黒羽城下へ赴き,薪納の半減を嘆願した。このため前年に薪未納のため入牢していた名主16名が釈放されたが,藤根は強訴の罪で斬首された。後年藤根は「おたきぎ様」と尊称されて現在に伝わる。文政4年の村々納薪調書によれば,当村のうち内町嘉兵衛組は266束余,内町佐兵衛組は269束余,新町組は179束余,石波組は155束余,鼓内組は121束余を上納している(県史近世4)。文政10年の御取締向改革では益子組合村30か村(のち33か村)の親村となった。慶応4年には田野方面で起こった世直し一揆が生田目村まで迫ったため,益子陣屋の郡代官が討伐軍を出している。嘉永6年福手村生まれの大塚啓三郎が字根古屋で始めた瀬戸焼は現在の益子焼の前身で,黒羽藩の支配と保護をうけて発展し,元治元年には当村を中心に下之庄全体で7人の焼出人がおり,冥加金8両2分余を納めていた(平野家文書/益子の歴史)。黒羽藩では瀬戸焼を藩の専売品として御産物瀬戸物役所を置いて支配し,明治2年には当村18人ほか2人が藩から窯を借り,農間余業として徳利・土鍋・土瓶などを生産した。商品は鬼怒【きぬ】川真岡【もおか】河岸から船で江戸に運ばれ,日本橋瀬戸物町で捌かれた(益子の歴史)。祇園社(鹿島神社に合祀)の牛頭天王(祇園)祭は,宝永2年にすでに行われた記録があり,1年365日になぞらえて3升6合5勺入る大杯で燗酒3杯を飲み干す御神酒頂戴式が行われるほか,御輿・山車も繰り出すにぎやかな祭りで,各組年番で現在も続いている(益子の歴史)。神社には鹿島神社・高館権現・大平神社・厳島神社・愛宕神社・稲荷神社・高龗神社・八坂神社,寺堂には真言宗西明寺(坂東三十三か所観音霊場第20番札所)・同宗観音寺・曹洞宗鶏足寺・時宗正宗寺・浄土真宗清浄寺・薬師堂(2か所)・奥観音堂・虚空蔵堂・十王堂・不動堂がある(芳香誌料)。明治4年宇都宮県を経て,同6年栃木県に所属。同8年地租改正丈量の際に北益子村を合併。「地誌編輯材料取調書」によれば,反別は田155町余・畑123町余・宅地22町余・平林25町余・萱場3町余・その他(山林・芝地・池沼など)総計842町余,同10年の戸数239・人口1,567(男812・女755),馬数141,溜池は円道寺溜・須田ケ池溜など9か所,民業は農業を主とし陶器製造や炭焼を行い,女は農間に機織をした。ほかに酒造業5戸・旅店3戸・質屋7戸・荒物店5戸・大工6人・鍛冶屋3人・屋根葺5人・杣5人・陶器工251人・陶器画工13人がおり,同年の陶器産額は1万7,500円で東京・横浜地方へ販売された。明治7年第四十五番小学教和学舎が当村鶏足寺を仮用して開校,当時の生徒数80。同18年益子小学校と改称(益子小学校沿革誌)。明治14年の戸数245・人口1,576(県治提要)。同16年の「地方巡察使復命書」によれば,陶器製造を業とする益盛社があった。同年生田目村ほか2か村と連合し,戸長役場を当村に設置。明治22年益子村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7280764