糠部郡(中世)


鎌倉期から見える郡名本県東部の三戸郡・上北郡・下北郡と岩手県北部の二戸郡・九戸郡・岩手郡葛巻町などを含む広大な領域に及ぶこの地域は,平安期の弘仁年間には都母村・爾薩体村という2つの蝦夷村として見え(日本後紀など),前九年の役に際しては,蝦夷の族長安倍富忠の支配下にあった鉇屋・仁土呂志・宇曽利の地域にあたると思われる(陸奥話記)「吾妻鏡」文治5年9月3日条に「泰衡被囲数千軍兵,為遁一旦命害,隠如鼠,退似,差夷狄嶋,赴糟部郡,此間,相恃数代郎従河田次郎」と見えるこの糟部郡は糠部郡の異称と思われる文治5年奥州合戦で源頼朝の軍勢に敗れた藤原泰衡は,夷狄嶋に渡るため糠部郡に赴き,郎従河田次郎を頼ったが,比内郡贄柵で殺された次いで,「吾妻鏡」文治5年9月17日条に載せられた中尊寺衆徒ら注進の寺塔已下注文に「糠部駿馬五十疋」と見えるこれによれば,平泉毛越寺の本尊薬師丈六の造営に際して,京都の仏師雲慶のもとに円金100両・鷲羽100尻・水豹皮60余枚・安達絹1,000疋など莫大な数量にのぼる功物が届けられ,糠部の駿馬もその一環をなしていた毛越寺造営の平泉藤原氏2代基衡の頃には,すでに糠部の郡名が存在したことが知られる前九年・後三年の役を経て,平泉藤原氏による北奥支配の確立した11世紀末~12世紀初頭が,糠部郡の成立期とみられる郡内は一戸~九戸の9つの部(戸)と東・西・南・北の4門に分けられている鎌倉初期,南部氏の始祖南部光行が糠部郡を拝領したのち,郡内を東・西・南・北の4門と一戸から九戸までの9つの部(戸)に分け,1個の戸に7か村を配し,1牧場を置いたのに基因するという(地名辞書)これに対し,近年には,弘仁年間文屋綿麻呂が蝦夷平定ののち残置した守備兵の駐屯地,すなわち柵戸【きのへ】から発展した村落に由来するという説がある「吾妻鏡」文治6年3月14日条によれば,源頼朝が朝廷に馬20疋を献上したことその他に対し,同年3月5日の後白河法皇院宣に「戸立なと出来之体,必可歴御覧歟」とある戸立とは戸で生産された馬のことであり,平安末期に一戸~九戸の九部(戸)制が成立していたことは確実である九戸四門のうち,本県に関するものを記すと,三戸は馬淵【まべち】川中流域,現在の三戸町・南部町にあたる四戸は現在の名川町上名久井とする説(郷打古実見聞記)と,三戸と五戸の中間に位置する五戸町浅水に比定する説がある現在の八戸市櫛引にある櫛引八幡宮は四戸八幡宮と別称されるまた,元和7年5月29日の南部利直充行状に「四戸之内嶋森」と見え(三翁昔語/岩手県戦国期文書Ⅰ),この嶋森は南郷村島守にあたる四戸は三戸と五戸の間にある地域で,現在の名川町・福地村・南郷村と五戸町南部,八戸市西端を含む地域に比定される五戸は,五戸川流域を中心とし,一部浅水川流域を含む地域で,現在の倉石村・新郷村,五戸町北部,八戸市北部を含む地域に比定される六戸は,奥入瀬川流域の十和田市・十和田湖町・六戸町・下田町・百石【ももいし】町・三沢市などにあたる七戸は七戸川の流域から野辺地にかけての広大な地域で,七戸町・上北町・東北町・野辺地町・天間林村などにあたる八戸は馬淵川と新井田【にいだ】川下流域の八戸市中南部に比定される東門は太平洋岸近くの岩手県九戸郡種市町・大野村に比定されている種市町と本県の階上【はしかみ】町との境に角ノ浜【かどのはま】があるのは,東門の浜という地名の残存である階上町赤保内字寺下の観音堂にある寛保3年6月の奥州南部糠部順礼次第に「寺下東門一番正観音 脇士不動明王 毘沙門天王」とあり,順礼の打ちつけた御詠歌には「東門めぐりはじめの札うちて応物寺の下の観音」「東しかとめぐりはじめの名をとめておふもつ寺のしたのかんせおん」などとあり,この堂のある地は,東門の内であることをその頃も伝承していたことが知られる階上町も東門に含まれていたと思われる北門は,正安3年4月26日のきぬ女家族書上案に「きたのかとたこ」と見え(新渡戸文書/岩手県中世文書上),この「たこ」を田子として現在の田子【たつこ】町に比定する説と,下北半島の地に比定する説があるなお,一戸・二戸・九戸,南門・西門は現在の岩手県城にあたる正平21年8月15日の四戸八幡宮毎年放生会役支配注文案によれば,一戸~九戸の9つの部(戸)と東・西・南・北の4門が,四戸(櫛引)八幡宮の放生会役を勤仕している(遠野南部文書)一戸・二戸を南門,三戸・四戸・五戸を西門,八戸・九戸を東門,六戸・七戸を北門とする説(地名辞書など)は誤りである戸の番号は環状式に起点に近い方から右回りに付されているしたがって,奥州藤原氏の居館のあった平泉を起点としての呼称であるともいわれるこの場合,九戸四門制は藤原氏により成立したことになろう成立当初の糠部郡は,一戸~九戸の名称が遺存した地域,すなわち中世の糠部郡のうち下北半島を除く地域にあたると考えられるその後,鎌倉期には下北半島の地域も糠部郡に含まれているまた,「吾妻鏡」建久元年2月12日条に「於外浜与糠部間,有多宇末井之梯」と見え,多宇末井の梯は現在の青森市浅虫と久栗坂の間の善知鳥崎【うとうまい】(烏頭前)に比定されるので,糠部郡と津軽地方の境はほぼ現在と変わりないと思われる文治5年奥州合戦ののち,当郡は鎌倉初期から北条氏得宗領となり,代官を派遣して所領管理にあたらせた三戸に横溝新五郎入道・大瀬次郎・合田四郎三郎,五戸に三浦氏,七戸に工藤右近将監・横溝弥五郎入道・横溝六郎三郎入道浄円,八戸に工藤孫次郎・工藤孫四郎・工藤左衛門次郎,宇曽利郷の安藤(安東)氏などであり,彼ら北条氏の一族・被官は郡地頭北条氏から各戸郷村ごとに地頭代職に補任されていたと考えられる鎌倉期の糠部郡には各所に馬牧が設けられ,公田に課せられる年貢も馬で納められた永仁5年11月21日の五戸郷々検注注進状によれば,「へらい(戸来)」「またしけ(又重)」「なかいち(中市)」「いしさわ(石沢)」「せきふくろ(堰袋)」などの各郷ごとに3~6町のくでん(公田)が登録されていた(新渡戸文書/岩手県中世文書上)なお,この検注注進状は,公事徴収の基礎としての公田数の把握を目的として,五戸の地頭代三浦氏により作成されたと考えられ,当郡内の土地は地頭代によって把握され,北条氏のもとに注進されたと考えられる建武元年8月6日の三戸の横溝新五郎入道跡と推定される注文には,とまへち(苫米地)・小泉などの住人が耕す田数と貢献すべき馬疋が記されている(遠野南部文書・新渡戸文書/岩手県中世文書上)また,馬牧に働く牧士【もくし】の存在も知られる正安3年4月26日のきぬ女家族書上案によれば,きぬ女は東門種市の牧士きとう四郎の姪であった(新渡戸文書/岩手県中世文書上)きぬ女の子息・縁者は三戸・五戸・八戸・東門・西門・北門など糠部郡内の各所に広がっていたまた,当郡はすでに平安末期には馬産地として全国的に知られていたと思われ,「源平盛衰記」などの諸書にも糠部産の名馬のことがたびたび記されている宇治川の合戦で知られる三戸産の池月,七戸産の磨墨は特に有名である(源平盛衰記)熊谷次郎直実が上品の絹200疋を投じて捜し求めたという一戸産の権太栗毛,同じく,その替馬として用意された三戸立の西楼も有名であり(同前),このほか一之部黒(異本平治物語),一戸黒(太平記),若白毛・町君(源平盛衰記)などの名前も知られる鎌倉幕府の滅亡によって,全国各地の北条氏得宗領は没収され,他氏に充行われることとなった北条泰家の所領となっていた糠部郡は没収されて,足利尊氏に充行われた(比志島文書/神奈川県史)糠部郡内の各地における北条氏代官の所領も没収され,建武新政府側の人物に充行われた本県関係の新給人を記せば,三戸に南部師行・戸貫出羽前司・河村又二郎入道・工藤三郎景資・岩崎大炊六郎入道,七戸に伊達右近大夫将監行朝・伊達五郎宗政・南部政長・結城親朝,八戸に南部師行・戸貫出羽前司・河村又二郎入道・伊達光助などであるこのほか,五戸の三浦高継,八戸の工藤孫四郎・同孫次郎は鎌倉末期以来の所領をそのまま安堵された南北朝期の糠部郡は,諸氏の勢力が入り乱れる争乱の場と化した南北朝中期の貞和・観応年間には,奥州管領の吉良・畠山両氏によって当郡が分割統治されたこともあったという永正11年に記された「余目氏旧記」に「吉良・畠山数度取合ニ,両所たいくん(退軍)にて,一度ハ無事ニ御談合ヲもつて,奥州ヲ半分つつ国わけヲし給ふ,其時ハ糠延(部)郡とみやき(宮城)ヲハ,一郡ヲ半分つつわけ給ふ,そのゆへ(故)ハ,ぬかのふハ大郡といひ,しゆくのこほり(郡)たるゆへなり,みやきは国の府中ニて,昔より見えあるし(主)御在所たる間也」と見える糠部郡は奥州最大の郡であるため,特別に重要視されて,国府の在所たる宮城郡と並び称されていたことが知られる国府の守護神,同時に奥州一宮たる塩釜神社の神領が,糠部さらには外浜に設定されていたことも記されているこのような南北朝期の争乱の中で次第に勢力を拡張し,他氏を圧倒して糠部郡全域の覇権を掌握するに至ったのは南部氏であるこのうち,南北朝期~室町期に勢力を持ったのは南部氏一族根城南部氏である同氏は南北朝期,八戸の根城を本拠地として糠部郡に勢力を張り,北奥における南朝勢力の中心となって津軽へも勢力の伸張を図った根城南部氏は南北朝末期の9代長経の頃から八戸氏を称し,応永26年8月6日の南部政光下知状によれば,その所領は八戸のほか岩手郡・閉伊郡・仙北郡にまたがっていた(遠野南部文書/岩手県中世文書上)室町前期に至り根城南部氏は当郡一帯を支配するようになり,さらに康正3年に終結する蛎崎の乱ののち,宇曽利郷など下北半島の地も支配下においたと考えられるその後,天文年間以降根城南部氏は急速に勢力が衰え,三戸南部氏が台頭するようになり,近隣の一族・他氏を圧倒し,戦国大名への道を歩んだ一方,室町・戦国期の糠部郡は馬産地として前代以上に天下に聞こえるようになった永正5年八条近江守房繁が書いたという糠部九箇部馬焼印図には,一戸~九戸の各牧から京進される馬に押された焼印のことが記されている(古今要覧稿)これによれば,一ノ部(戸)7か村の馬は両印雀(左右に雀)の焼印ただし,あひかびの馬のみは四ツ目結この印は牧の本主(旧領主)佐々木庶子の家紋という三ノ部は王文字と長文字の印ただし,河村は庵の中の筋交へ,小袖・河森田・あひないは来文字,むへないは雀,かやもりは鍬形・本文字,泉目は目結の印四ノ部は雀と松皮の印五ノ部は桧扇の印ただし,いもいは庵の中の筋交い,なくい・中伊手(中市)・またしけ・やういは雀,石沢は片車で領主佐藤氏の印,はねさきは雀・三文字の印であった六ノ部は千鳥・黒馬の印ただし,きさきは有文字七ノ部は有文字・雀・丁文字・桧扇の印八ノ部はヘイン・大文字の印ただし,めう野は雀・有文字九ノ部は雀印であったという一戸~九戸のそれぞれに7か村,糠部九箇部(戸)の合計は63か村であったとされる各牧の規模は不明であるが,六戸のきさき(木崎)は8,000疋の牧,八戸のめう野(妙野)は9,000疋の牧と記されている「糠部馬のこんほん(根本)のかね(焼印)は,有文字・来文字・かた車并くわかた・いほりの中のすぢかへ・雀・二部(戸)の四目結是等也,是外あるひは鳥井・よみとり・こばんのせいもく・くつかた・鴨形・口縄・相いかた(筏)・千鳥・さくさい以下さういん,百姓等がわたくし(私)の印これおほ(多)し,其かず(数)を知らず」と最後に総括されている糠部の駿馬が京都の人々に賞
されていた様子が知られる天正18年小田原に参陣し,豊臣秀吉に謁した南部信直は,同年7月27日秀吉の朱印状により「南部内七郡事大膳大夫可任覚悟事」として所領を安堵された(盛岡南部文書/岩手県中世文書下)この「南部内七郡」については,和賀・稗貫【ひえぬき】・紫波【しわ】・岩手・閉伊【へい】・鹿角・糠部の7郡とする説と,北・三戸・二戸・九戸・閉伊・岩手・鹿角の7郡とする説がある後者の説は糠部郡が天正18年の時点ですでに北・三戸・二戸・九戸の4郡に分割されていたと考えるものであるしかし,天正20年6月11日の南部大膳大夫分国内諸城破却書上(聞老遺事/南部叢書2)および天正末年から寛永6年に至る南部信直・利直の知行充行状(岩手県戦国期文書Ⅰ)などには北・三戸・二戸・九戸の4郡は全く見えず,すべて糠部郡と記されているまた,南部信直の「南部内七郡」安堵は秀吉による「奥羽仕置」の一環として行われたものであるが,「奥羽仕置」の原則は当知行地安堵であり,小田原に参陣しなかった大名は所領を没収されたこの際,稗貫氏・和賀氏も同様に所領没収となっており,和賀・稗貫・紫波の3郡は豊臣政権による没収地として南部氏に与えられても不思議ではない天正20年,南部信直は世継の利直を三戸城に置き,みずからは九戸政実の旧居,九戸城に本拠を移し,城名も福岡城と改めた同年姉帯・一戸・葛巻・野田・久慈・種市・古軽米・浄法寺・櫛引・八戸・中市・新田・沢田・洞内・七戸・野辺地などの糠部郡内の諸城も破却された信直は,慶長3年から岩手郡不来方【こずかた】城の修築に着手し,同4年居城をこの盛岡に移すに及び,江戸期の盛岡藩が成立し,糠部郡は中世以来の南部氏の本拠としての性格を失った江戸幕府からの領地目録は寛永11年8月4日徳川家光から与えられたが,この目録には「陸奥国北郡・三戸・二戸・九戸・鹿角・閉伊・岩手・志和・稗貫・和賀十郡,都合拾万石〈目録在別紙〉事,如前々全可令領知之状如件」とあり,この年糠部郡は北・三戸・二戸・九戸の4郡に分割され,郡名は生滅したなお,糠部の地名は江戸期においても二戸郡内(一戸・二戸)の小名として残った

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7251954 |