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海辺荘(中世)


鎌倉初期~南北朝期に見える荘園名「和名抄」に見える出羽郡余戸郷にあたる地域と思われる庄内平野の中央部,最上川の南,京田川以北の穀倉地帯で,西は日本海に面し,東は最上峡および立谷沢の山間部に続く当荘の初見は「吾妻鏡」建久元年1月6日条で,同条によれば,平泉藤原氏の残党大河次郎兼任は反逆を企て,伊予守義経と号して「出羽国海辺庄」まで南下する気配を示した鎌倉後期の永仁5年,真言宗かと思われる長沼勝泉寺の僧範空は弟子浄観に両部伝法灌頂を授けたその時の印信(金沢文庫古文書仏事編下)に「右於羽州大泉海遍御庄勝泉寺,授両部伝法灌頂畢 永仁五年〈歳次丁酉〉三月廿二日 浄観授之 伝授大阿闍梨範空」とあり,「テハノクニヲヲイツミカイヘンノミショウ」と注記されている印信は同時に授けられた「伝法許可秘印」「卒都婆印明」など7点とともに相州称名寺(現神奈川県横浜市金沢区)金沢文庫典籍のなかにある当荘と鎌倉との文化的交流が知られる現在の藤島町大字長沼の北,京田川近くの勝楽寺遺跡には,館跡・本町・鍛冶屋敷・輪の内などの地名が残り,付近からは人骨・鉄屑・井戸枠・五輪塔・宋銭数千枚などの出土もあった昭和54年の発掘調査では,掘立柱建物跡・井戸跡・溝跡・墳墓・珠洲焼系中世陶器・越前焼系中世陶器,南宋伝来の青磁・銅銭などが新たに発見された(藤島町教育委員会:勝楽寺遺跡)建武3年12月11日の足利直義下文(安保文書/県史15上)によって,安保光泰(法名光阿)は「出羽国海辺余部内宗太村」などの地頭職を安堵された「代々譲状并正安三年十二月十日・正慶二年二月廿九日外題安堵状」に任せて領掌すべしという文言からすれば,鎌倉期から続く安保氏本来の所領だったかにみえるしかし,同時に安堵された所領のうち,信濃国小泉荘室賀郷(現長野県上田市)の地頭職は元弘3年12月29日足利尊氏下文(横浜市立大学図書館所蔵安保文書)によってはじめて勲功の賞として宛行われたもの建武4年4月12日大和権守高重茂奉書(松本市安保文書)などによれば,武蔵国児玉郡(現埼玉県児玉町付近)枝松名内塩谷田在家・同国太駄(田)郷(現埼玉県児玉町)なども勲功の賞として与えられたと思われる鎌倉末期までの信濃国小泉荘地頭職は北条氏所領であった(年未詳足利氏恩賞地目録/比志島文書)安保氏は北条氏の地頭代官として小泉荘室賀郷を知行,それが北条氏の滅亡後地頭職に切り替えられ勲功の賞とされることになったものとも思われる「吾妻鏡」延応元年7月15日条によれば,北条泰時は「女檀藤原氏」のすすめによって小泉荘室賀郷の水田6町余を信濃国善光寺(現長野県長野市)に寄進した「女檀藤原氏」とは泰時の後室安保氏(安保実員の女子)にほかならない(武蔵七党系図)室賀郷をめぐる北条・安保両氏の関係はこの時すでに成立していたのかもしれない(湯本軍一:北条氏と信濃国/信濃19‐12)安保氏は御家人としての独立を保ちつつも北条氏の門に出入して各地の北条氏所領の代官を務めたおそらく出羽国海辺余部の所領もまた北条氏所領であったと考えられるそれが小泉荘室賀郷と同じく勲功の賞として地頭代職を地頭職に切り替えて安保氏に与えられることになったものであろう暦応3年正月24日の安保光泰置文(安保文書/県史15上)によれば,光泰(光阿)はその所領を3人の子息に配分した海辺余部の所領も三分されて「出羽国海辺余部内余部郷・惣(宗)太郷両郷」は嫡子中務丞泰規に,同じく「阿佐丸郷・阿都郷・袋郷三ケ郷」は次男左衛門尉直実に,同じく「佐々崎郷」は彦四郎光経(行泰)に配分された彦四郎光経(行泰)が戦死したこともあり,さらに同年8月22日の安保光安置文(安保文書/県史15上)で配分の修正がなされ,次男直実に「阿佐丸郷并袋郷」,三男彦五郎には「船越・佐々崎郷」が与えられたこれらの郷のうち,余部は大字余目,惣(宗)太は大字余目字沢田,阿佐丸は大字下朝丸,阿都は大字跡,袋は大字西袋の現在地名に比定される(伊藤一美:中世領主の居館地について/余目安保氏関係資料)いずれも現在の余目町内の地名で,安保氏の所領は現在の余目町一帯,すなわち海辺荘の西寄りの地域であったと思われる海辺荘東部の領有関係については,陸奥国白河荘(現福島県白河市付近)の御家人結城宗広が元弘3年もしくは建武元年頃書きあげた結城宗広知行所領注文写(伊勢結城文書/県史15上)に,「出羽国余部内 尾青村・清河村 同国狩河郷田在家」と見える延元元年4月2日結城宗広譲状写(白河故事考所収文書/県史15上)・応安2年6月19日結城顕朝譲状写(同前)・応永4年10月21日結城満朝譲状写(同前)などによれば,結城宗広は所領を嫡孫顕朝に譲り,顕朝からさらに満朝―氏朝に譲られた清河は現在の立川町大字清川,狩河も同町大字狩川に比定され,南北朝期から室町初期における海辺荘東部の地頭は結城氏であったことがわかる清川の東,立谷沢の山間部が南朝方北畠氏の拠点となったのは,立谷沢が奥羽における南朝方の雄,結城氏の所領内であったからにほかならないところで,余部と同時に伝領された結城宗広の所領群のうちには明らかに北条氏所領であったものが含まれていた年未詳の結城宗広知行得宗領注文(伊勢結城文書/福島県史7)に見える陸奥国津軽田舎郡内河辺・桜庭郷(現青森県浪岡付近),参河国渥美郡内牟呂・草間郷(現愛知県豊橋市付近)などである北条氏所領である陸奥国津軽田舎郡地頭職あるいは参河国渥美郡地頭職の一部をなすこれらの所領において,結城宗広は地頭代官の地位にあったものと思われるそれが北条氏滅亡後は地頭職に切り替えられて勲功の賞とされたのである独立した御家人でありながら北条氏とも親しく出入りするという点では,安保氏も結城氏と同様であった「出羽国余部内 尾青村 清河村 同国狩河郷田在家」もまた,北条氏所領であった可能性が高い以上の推測が正しければ,鎌倉末期の海辺荘地頭職は北条氏所領であり,安保氏は西部の地頭代官,結城氏は東部の地頭代官を務めていたことになる(ただし両氏以外にも地頭代官がいた可能性もある)北条氏滅亡後,それぞれの代官職が地頭に切り替えられて安保・結城両氏は独立した所領の主となることができたといえよう鎌倉末期北条氏所領となる以前の当荘の地頭については不明,荘園領主についても同じく不明であるただし永仁5年3月22日の範空印信(金沢文庫古文書仏事編下)の「羽州大泉海遍御庄勝楽寺」という記載によって,大泉荘との密接な関連がうかがえることから,大泉荘地頭大泉(武藤)氏が当荘の地頭を兼ねていたとも考えられる大泉荘地頭職もまた鎌倉末期には当荘と同じく北条氏所領となっていたものと思われる嘉暦2年3月日の中尊寺衆徒等解案(中尊寺文書/県史15上)には「羽州狩河以下八ケ所寺役一向退転」と見え,狩河のみは鎌倉末期に平泉中尊寺(現岩手県平泉町)の所領であったことがわかる先の結城氏の所領注文・譲状で「出羽国余部内尾青村 清河村」から狩河のみを区別して「同国狩河郷田在家」と記しているのはこのためと思われる南北朝期の地頭安保・結城両氏のうち室町期以降にまで在地に勢力を維持できたのは安保氏のみであった「羽黒山暦代記」の異本「大泉庄三権現縁記」に「永正三寅年羽黒山御本社御修覆……田尻ハ余目の城主安保余次郎殿御領分也,茗ケ沢・引地中棚・真木嶋等御持分也」と見える現在の余目町大字余目小字館には阿保殿館があり,当時の遺構が残されている付近の乗慶寺は安保氏の菩提寺「実相院殿即翁鉄心大居士 至徳三年酉子(ママ)霜月十六日」安保太郎吉形の位牌がある(出羽国風土略記・伊藤一美前掲論文)江戸期庄内藩の行政区画としての狩川通は,狩川組・清川組・添川組・上余目組・下余目組からなり,各組はさらに10村前後の集合体であったそれに御料地の村々を加えた地域が海辺荘の荘域に当たるものと思われる庄内地方,現在の余目町・立川町の一帯,酒田市の最上川以南の海岸部,京田川に接する長沼勝楽寺など藤島町の一部に比定される

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KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7261642