小田島荘(中世)


平安後期~戦国期にかけて見える荘園名小但嶋荘とも書き,「こたしま」とも称した村山郡の東南部を占める村山盆地の東北部,最上川より東の平野・山間部に広がる南は乱川を境に成生荘と隣接する初見は関白藤原師通の日記「後二条師通記」寛治6年12月4日条(県史15上)で,本条によれば,「出羽小但嶋庄」に関しては,一条院の時にも「記録」の提出を求められることなく領有を続けてきたとあるこれが事実であれば,一条院(天皇)の寛和~寛弘年間以前には当荘が摂関家領であったことになるが,あまりにも早期にすぎる「記録」とあるのは「記録所」のことかとも思われるこの場合記録所は後三条天皇の記録所以外にはなく,「一条院」は「後三条院」の誤りとも考えられるそうであれば当荘の成立は,後三条天皇の延久年間以前ということになる「後二条師通記」によれば,「二条殿」の時にも当荘の領有をめぐる問題があり,国司免判のことが取り沙汰されたという「二条殿」とは藤原道長の次男である関白藤原教通をさし,この「二条殿」の時,すなわち11世紀中頃が当荘の成立期とも考えられる鎌倉期,当荘の地頭となったのは中条氏で,初代は中条兼綱義勝房法橋盛尋ともいう(関東評定伝・鬼柳系図)武蔵横山党小野氏の流れを汲み(小野系図),武蔵国埼玉郡中条保を本貫とする八田知家の養子として立身して関東評定衆・出羽守となった中条家長は兼綱の実子にあたる2代義季は苅田平右衛門尉と称した(吾妻鏡,元久2年6月22日条・鬼柳系図)その所領,陸奥国刈田郡(現宮城県刈田郡)の地頭職にちなんだものである義季はまた小田島平右衛門ともいわれ(封内風土記刈田郡宮邑疱瘡神社条),当荘の地頭職をも兼帯していたことが知られる義季の長男義行は和賀三郎左衛門尉といい,陸奥国和賀郡地頭職を領知,和賀の家を興した(鬼柳系図)義季の小田島荘地頭職は別の男子が相伝し,小田島の家を興した「吾妻鏡」建長3年8月15日条に将軍家鶴岡八幡参宮随兵の一員として見える小田島五郎左衛門尉義春は義季の孫もしくは曽孫にあたる世代と思われる小田島荘―苅田郡―和賀郡を結びつける伝承は,その後長く和賀一族の間で語り伝えられた(鬼柳系図・稗貫家伝など)興国4年と推定される7月12日付の北畠親房書状(松平家所蔵結城文書/県史15上)に,「被行出羽國小田嶋庄候也」とあり,当荘は結城親朝の領有となったことがわかる結城氏はやがて北朝方に転じたが,結城顕朝(親朝の子)にあてた文和元年12月17日足利尊氏下文(白川文書/県史15上)によって,結城氏による当荘知行は引き続いて安堵されたことが知られる当荘の地頭職が南北両朝による所領宛行の対象となり,しかも当荘に無縁の陸奥国白川荘地頭結城氏がその給人とされたことは,当荘が本主権なき欠所地であったことを意味する鎌倉末期当荘の地頭職が北条氏所領となっていたことを暗示するものである観応3年7月4日付の鎌倉宝戒寺宛足利尊氏寄進状案(宝戒寺文書/県史15上)には,「上総国武射郡内小松村〈工藤中務右衛門跡〉并出羽国小田嶋庄内〈東根孫五郎跡〉事」とある工藤中務右衛門・東根孫五郎はともに鎌倉末期北条氏所領の給主(代官)であったと考えられ,その跡が欠所地として寺領寄進の対象となったなお東根孫五郎は小田島氏の一族と思われるまた応永12年谷地慈眼寺の開基と伝える「中条備前守藤原朝臣」も,あるいは小田島荘地頭中条小田島氏ゆかりの人であったかもしれない(慈眼寺文書)正平11年東根普光寺に懸けられた洪鐘(現東根市花岡薬師寺蔵)には「羽州中央小田嶋庄東根境致白津之郷山号仏日寺号普光」「正平十一年〈丙申〉六月廿四日」「大檀那前備前守従五位上平朝臣長義」などの銘文(県史15上)が見える東根白津郷は付近を流れる白水川に関連する地名平長義は鎌倉期の小田島義春の子孫と推定される東根若宮八幡社にも同じく正平11年備前守長義寄進の鰐口が現存し,「羽州村山郡小田島庄白津郷東根若宮常住 正平十一〈丙申〉夷則(7月)十七日 大檀那備前守長義」の銘(北村山郡史/県史15下)が知られる正平11年(延文元年)は長義にとって記念すべき年であったと考えられる前年正月の南朝方入京に遠く呼応した長義が,北朝方の結城勢を討ち,小田島氏本来の所領回復に成功したことを暗示するものであるただし,延文5年から貞治3年にかけて,羽黒堂(現村山市大字樽石)に奉納された大般若経写経奥書には,「奉施入 羽州村山郡小田嶋庄垂石郷羽黒堂」「延文五年〈庚子〉仲秋上旬 比丘尼正悟」(巻276)などの文字が見える(県史15下)いったん回復した正平年号が当荘では数年と続かなかったこと,当荘の荘域が最上川の西岸まで及んでいたことなどが知られるまた長楽寺(現河北町大字谷地)に伝わる親鸞上人御影裏書(県史15下)には,「専称寺門徒出羽国最上郡小田嶋庄谷地郷長楽寺常住物也」と記されているこれは慶長15年10月10日本願寺教如から下されたもので,必ずしも正確な記載とはいいがたいが,最上川西岸の谷地が同じく小田島荘に属していたことが知られる同様の記載は谷地長願寺天文16年方便法身尊像裏書写(同前)にも見える紀州熊野那智大社に伝わる慶長2年10月治部少輔旦那注文写(米良文書/県史15上)には,「出羽国さがい(寒河江)ノ内みぞのべ(溝延)しらいわ(白岩)」「のべさわ(延沢)」などと並んで,「こたしま(小田島)三十三かう(郷)」「にしかた(西方)」「しらづ(白津)の郡,在所ハひがしね(東根)」の文字が見えるこの小田島三十三郷が当荘の四至内に属する村々であった村山地方,現在の東根市一帯に比定されるただし最上川以西の村山市樽石・河北町谷地なども荘域に含まれる

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7262229 |